第六章【我が道】

第六章【我が道】

中学卒業間近頃は体の調子も大分良くなって
おり通院が半年に一回程度になっていた。
ある程度自由な時間や出来る事も増えた為、
好きな事に没頭した。漫画やセル画を描いたり、
アニメの声真似をしたり歌を歌ったり…
自分が出来る事様々挑戦して、
自分の道を模索していた。

高校へは行くつもりはなかった。

結果的に高校へは行く事になるのだが。

見切り発車だったかも知れない。
だが、その時は声優への道を目指して
いたのだ。
目標を持って猪突猛進するのも、
若さ故だったとも言えるであろう。

人と話すのが得意でない僕は人目に付かない仕事が向いてると思い、好きだった漫画家や声優のどちらかへ進もうと考えていた。

考え抜いた後、僕は専門学校の声優タレント科へ
入学を決めた。
入学後は当たり前だがとても厳しいものであった。
16歳程度の子供が様々な歳の離れた人と共に授業を受ける事になるのだから。
元々人と話してこなかった僕は
周りと合わせる事など出来るはずも無い。
ましてや皆は夢を叶えるという覚悟のもと
ここへ来ているわけだ。
中途半端な気持ちでいればそれこそ
ここでは邪魔な存在でしか無い。

そもそも僕自身クラスでグループを作り、
発表し、競うなどのギラギラとした
暑苦しい授業があまり好きでは無かった。
次第に学校へ通う足も重くなり、
僕は孤立していった。

カリキュラムをこなしていくうちに
声優の仕事は甘いものではないという事を
知った。
声優でも舞台というものがあり人目に晒される。
そしてダンスレッスンや歌、
とにかく体力を使うのだ。
卒業の頃にはすっかり意気阻喪してしまった。
プロダクションの方からも
声が掛かりはしたものの断った。
プロダクションに入ればそこから研修期間がありさらにお金が掛かってしまう。

この時の実家の経済状況は
かなり悪化していた。
父が部下の仕事の責任を取りクビになり、
莫大な借金を背負ってしまったと聞いた。
億単位という噂も耳にした。
もう父に助けてもらう事は
出来ないと思った。

父には東京に本妻と子供2人いたからだ。

この時に遅れてでも高校へ行こうと決めた。
なぜ高校へ行こうという心境になったか?
それは将来仮に普通の職に勤める事になったら
中卒だと就職が難しいだろうと懸念しての
ことだった。

どんな事があるか分からないからこそ、
抜け道はいくつか用意しておくものだ。

少し冷静に考えれば先を見る事だって
出来ただだろうが、中学卒業後の
僕は考えが甘く幼かった。

そうして僕は声優への道を諦め一年遅れで
定時制高校へ行ったのだった。

高校へ通い始めてからは、バイトへ行き、
よく歌を歌う様になった。
次第に音楽を本気でやりたいと思う様になり
バンドを組んでオリジナル曲を
作るようになった。

僕は人とコミュニケーションを取る事が
下手で今まで友達が上手く作れなかったが、
バンドでボーカルを務めていくうち、
次第に友達と呼べる人も少しずつ
増えていった。
月一でのステージに立つ事は、
目立つのが好きでなかった為に
時に辛く感じたりもしたが、
あの頃は歌う事が純粋に楽しくて
毎日暇さえあれば歌を歌った。

全力でミュージシャンを目指そうとバンドに
心血を注いでいた。

波の様に大らかに周りを包み込み、
深海から心に語りかける様な、
そんな歌い手に僕はなりたかった。

有名でなくてもこの声が届いてくれる相手が
1人でもいてくれたら満足だった。
音楽は僕にとって大切なものとなっていった。

イルカ君が大学へ進み家を出てからは、
母と僕の2人になり僕が18歳くらいになる頃には
母は家にあまり帰らなくなっていた。

母に好きな人が出来てその人の家に住む様になり、
家の茶の間のテーブルには1週間おきぐらいに
いつの間にか5千円が置いてあると
いった生活になった。

母の仕事柄幼少期からイルカ君と2人きりで
ご飯を食べる事も多かったのだが、
そのイルカ君もいなくなって1人でご飯を食べる事が日常になった。

たまに食費が足りない時はバイト代で
足りない分を補ったり、
友人におにぎりを貰ったりして何とか凌いでいた。
その友人には感謝してもしきれない程
色々世話になった。
熱が出たり何かあればすぐに駆けつけてくれる
器の大きな友人であった。

今ではその友人も結婚をして、
連絡は取り合わなくなったけど
元気にしているのだろうか。

命の恩人には長生きして欲しいものだ。

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