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『沈香学』 is killing me.

ずっと真夜中でいいのに。とは——

メンヘラ美であり、
タフネスであり、
ブラボであり、
無顔であり、
不良であり、
刹那であり、
焦燥であり、
反抗であり、
犯行であり、
執着であり、
幽霊であり、
倦怠であり、
諦念であり、
空(くう)である。

そんなようなことを、新譜『沈香学(じんこうがく)』を聴いて思ったので、それについて書きます。

『沈香学』、その一撃

最初の1曲「花一匁」からラスト曲「上辺の私自身なんだよ」まで、ひたすら驚き、ひたすら揺さぶられっぱなしだった。

聴き終えて、こんなことを思った。

ずっと真夜中でいいのに。/←意地でなかなか略することができないのだが、もうすぐ屈してしまいそう/は、ここまで来てしまったのか……/これは分岐点ではない/もはや分岐はない/ノー・ターニング・バック

自分は音楽であれ映画であれゲームであれ、何かしら「作品」に触れた時、「ヤバい」を多用する方なのだが、「エグい」「エモい」は、日常においても記事においても極力使わないようにしてきた(なんとなく、生理的に)。

しかし『沈香学』をもっとも短く的確に表す言葉は、「ヤバい」ではなく、「エグい」である。そう、これはじつにエグいアルバムである。

「ヤバい」と「エグい」の違いは何か。
自分にとっては——「ヤバい」には、これまで認識していなかった別の次元に「ふわっ」と連れていかれるような感覚がある(今年出た君島大空『映帶する煙』、クリスティーヌ・アンド・ザ・クイーンズ『パラノイア、エンジェルズ、トゥルーラブ』はそんな作品だった)。

「エグい」は、自分が属している現実に於いて、想定していた目盛りをぐぐっと超えてきたものに対して感じる所感である。適当言ってない。

それはたとえば、指から出た真っ赤な血を目の当たりにした時とか——激しい眩暈で立ってられなくなった時とか——向精神薬を過剰摂取した時とか——残業時間を遥かに超えて労働している時の感じにきわめて近い。
"想定可能な現実"ではあるものの、実際にそれが現実に起こった時、出現した時、言い渡された時、鳴り響いた時、我々は思わず「はっ」とする。そして、その「ありえる強烈さ」に薄ら笑いすら浮かべてしまう。身悶えながら。

肉体を抜けるのではなく、肉体を保ったまま、意識を保ったまま、現実の熾烈さと己の精神の存在を完璧な解像度と言葉と音で見せつけるような、あたかも完璧なワン・ツー・アッパーで容赦なく殴られ続けているような心地。それがノンストップで54分間続くのだ。死んでしまう! そう、『沈香学』に「It killed me.」(やられてしまった)。by ホールデンコールフィールド。

ずっと真夜中でいいのに。の諸作品。とくに本作『沈香学』のエグさはある種の暴力性さえ伴っている。
そう、エグさとは暴力である。しかし何よりも、誰よりもエモーショナルであるためには、暴力的なくらい、体力・技量・センスが完璧に伴っていなければならない。ずっと真夜中でいいのに。は『沈香学』において、それを完璧にやってのけた。はあ(ため息)。

本作『沈香学』をほうほうの体で聴き終え、思う。ずっと真夜中でいいのに。その野心とは、「その声」を一切のノイズなしに届けることではなかったか。その声は悲鳴を上げている。ふてくさている。調子に乗っている。自己憐憫している。怒っている。惚れている。跳ねている。脅している。焦っている。なだめすかしている……。
その声は、もはやACAねの声であってACAねの声に非ず。その声は、此の世界に溢れている。その声は、此の世界から自然と集ってきたものだ。集結したその声は、或る時代を、或る精神を完璧に鳴らしている。

ずっと真夜中でいいのに。とは、「ブラックボックス」である。
その声は僕の中にある。彼女の中にある。SNSの中にある。街を歩く無数の幽霊たちは、きっとずとまよを聴いているにちがいない。ずとまよは外殻を規定しない。固定しない。『沈香学』に収められた1曲1曲には、はちきれんばかりの魂の声が宿っている。でもそれはふとした拍子に消えてしまいそうな儚さを併せ持っている。排気口にそろそろと流れていく煙のように。

ずっと真夜中でいいのに。は、泣きたくなるような儚さと同時に、「そこになければないですね」と無表情に言い放つような、ミもフタもない現実認識を有している。しかし、諦めながらも首を縦にはけっして振らない。
そこにちゃちな夢幻はない。希望も(ほぼ)ない、商品性はおおいにある。ただ、このエグい音像で、エグい詩世界で、エグい演奏で、エグい声で、地獄のような今日という現実をアクセル全開ですっ飛ばす。そう、『沈香学』を聴いていると、深夜の高速道路をオープンカーですっ飛ばしながらこのアルバムを大音量でかけたい気持ちがひしひしとこみあげてくる(やれないけど)。

誰かのカーステレオで、渋谷で、地方都市のショッピングモールで、匿名的なオフィスで、教室で、誰かのイヤフォンで『沈香学』が流れ、耳を傾けている誰かのことを思うと、遥かな気持ちになる。主体が消えていく。私は、僕は、君は、彼は、彼女は、幽玄の闇の中に吸い込まれていく。その闇にはコンビニの看板——セブンでもローソンでもファミマでもいい。できればファミマがいい——が煌煌と光っていることだろう。信号機も点滅しているかもしれない。点滅する信号機はずとまよの音楽によく似合う。

今日も『沈香学』を聴いてから近所のセブンイレブンに行き、アイスコーヒーを買って公園のベンチで飲み、電子タバコを喫って、もわっとした夏の真夜中の空気で、年甲斐もなく、少しばかりひりひりしたような気持ちになるのだろう。そういうのはほとんど全部が、ずっと真夜中でいいのに。という稀代のアーティストがリリースした『沈香学』というエグいアルバムのせいなのだ。たぶん、絶対。

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