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「会いたくなったらいつでも」

それはずいぶん ふしぎな日でした
起きたら 黄色いお花が咲いていて
わたしの名まえを呼んだのです

祖母の記憶

私事で恐縮だが、わたしの人生において、祖父母と呼べる人は母方の祖母1人だけだった(両祖父はわたしが生まれる前に亡くなっていた)。

その祖母には「ありがたい」という言葉では全く足りないくらい感謝している。わたしは比較的扱いづらい幼児だったと自覚しているが、小さな頃から祖母によく懐いていたし、可愛がってもらっていた。祖母は小さなわたしが「祖父母的存在」に求めるものを一手に引き受けてくれていた。

祖母は(孫のひいき目を抜きにしても)素敵な人だった。気丈で愛想も良いが、心の中に自分だけの部屋を持っているような、どこか自閉的なムードを色濃く漂わせていた(戦争経験と若くして夫を亡くしたことも無関係ではないかもしれない)。それでいて、東北人らしい生真面目さと素朴な明るさもたっぷり有していた。ようは、チャーミングだがなかなか掴みづらい人だったのである。

わたしが20代半ばで日々忙しくしていた頃(ゲーム雑誌を扱う出版社に入ったばかりで一心不乱に働いていた)、仕事に向かう道すがら、買い物帰りであろう祖母にばったり遭った。そそくさと手を振って先を急ごうとするわたしを引き留めると、祖母は何か決意をこめたような笑顔で言った。
「ラブちゃん(わたし)のこと、おばあちゃん、いつでもちゃんと見てるからね」

老齢の祖母が孫に向かって口にする言葉としては、ありふれたものに聞こえるかもしれない。でもそう言った祖母はわたしを路上で強く、長くハグしてくれた。それは滅多にないことで、わたしは気恥ずかしさと早く駅に行かなければ……という焦りでうまく言葉を返せなかった。
ぴりっとした冬の曇った午後の空気と、祖母が着ていたグレーのカーディガンのちくちくした感触、線香に似た匿名的な香りによって、祖母の声と言葉は生々しく立体的なものとなって、今もわたしの記憶に残り続けている。

我が祖母

祖母の幻影

2年後、祖母が他界した時、わたしは27歳だった(もうずいぶん昔のことだ)。それからさらに長い時間が流れた今現在、わたしは額に入れた祖母のモノクロ写真をデスクの隅に立てており、そちらに目をやるたびに祖母のことを思い出している(思い出すために置いているようなものだが)。
でもわたしが想起する祖母は、年月が経つごとに、その表情や声のトーンもだんだんと変化しているように感じる。生前の祖母のイメージと、今、写真を見て自然に心に浮かぶ祖母のイメージは「別人」とまでは言わないまでもずいぶん違う。

祖母にまつわる自分の記憶が上書きされることはないはずなのに——どうしてそんなふうに感じるのだろう? わたしが歳を重ねたからなのだろうか。わたしの内にある祖母のイメージが、わたし自身の変化に呼応して、その像を変えているのだろうか。
とすると、わたしが日々(写真立てに目をやるたびに)思い出したり、その肉体が消失してからも、ずっとどこかで身近に感じていたあの祖母は、わたしの心象と記憶が作り出している幻影のようなものに過ぎないのだろうか?

そもそも、「祖母」とは誰(何)なのだろうか?

生きているあいだは答えが出ない(であろう)そんな問いを精神に巡らせると、わたしは「虚空」みたいなものによぎられるようで、一瞬ぶるっとする。川のせせらぎを聞いたり、電車を乗り継いで、そこそこ高い山にロープウェイで登りたくなる。焚き火に当たって、スキットルに入れたウィスキーをぐいと飲りたくなる。

それが叶わぬ今——狭い部屋で祖母のことを本格的に思い出したくなった時、わたしは祖母が好んで飲んだ「剣菱けんびし」という御酒を近所の酒屋で買い求め、湯飲みにどぼどぼ注ぎ、『すみれの空』というゲームをプレイする。そして3時間ばかり、彼岸の祖母を探し求める少女「スミレ」になるのだ。

スミレは、過疎化した小さな町のはずれに母親と2人きりで暮らしている。母親と父親はかつて大恋愛の末に一緒になったが、現在は別居中である。兄弟はいない。部屋の仏壇には他界したばかりの祖母の写真が飾られている。スミレは幼なじみのケンジ、そしておばあちゃんのことが大好きだ(両親のことも好きだが、そのこんがらがった思いを解きほぐして、ストレートな想いを口にすることは難しい)。

ある日、スミレのもとにヒマワリによく似た花がやってくる。それは『Undertale』でお馴染みフラウィーに似た(でもずっと優しい)、あるいは今年リリースされた『スーパーマリオブラザーズ ワンダー』のおしゃべりフラワーにも似た(もっとおせっかいな)人の言葉を解する花だ。幽霊の一種かもしれないし、ポケットモンスターのような異生物かもしれない。あるいはスミレのIF(ルビ・空想友人)のたぐいかもしれない。

空も飛べる

とにかくスミレにしか見えないその花の導きに従って、彼女は「とびっきりの1日」のためのチェックリストを書き出し、町に降りる。そのチェックリストは、言わば「死ぬまでにしたい10のこと」のようなものだ。
もちろん、スミレは「おばあちゃんに会う」をリストの末尾に書き入れる。そしてプレイヤーであるわたし自身も、「もし今日をとびっきりの1日にしたかったら何をするだろうか?」と自分に問うてみる。

でも「とびっきりの1日」と言われても、今のわたしには自室の片隅で(できればたっぷりの酒を用意して)ゲームすること、好きな本を読み、何か書くことくらいしか思いつかない。外に出かけ、たくさんのことを為して回るには、わたしは少々歳を取りすぎている。
写真の祖母はいつでも若々しく、頼もしげな笑みを浮かべている。わたしに向かって、こう言っているように見えなくもない。
ラブちゃん、もうちょっと頑張りなさい

それはわたし自身の声であり、虚空だか宇宙だかにこだましている祖母の声の反響でもあるのかもしれない。そう、わたしはこの世界でもうちょっと頑張らないといけない。この世界でもうちょっとラブをギブし、もうちょっとラブをテイクしないといけない。もうちょっと生き延びないといけない。おばあちゃんに会いたい。

山行きバスに乗って

ずっとしまっていたことば あの人に伝えて
大好きなおばあちゃんに 会いに行く
山行きバスに乗って 夕暮れ時を待って

若き父と母の思いでの海

うら若きスミレには、彼岸にいる(であろう)おばあちゃんと再会する前に、やるべきことがたっぷりある。たとえば、美しいものを見ること。友だちを作ること。幼なじみと仲直りすること。好きな人に告白すること。父親に電話をかけること。母親に今の感謝を告げること。
スミレはそんな「てんやわんや」な1日を無事に終えて、おばあちゃんに会うことができるのだろうか? そしておばあちゃんは——本当に、あの「おばあちゃん」なのだろうか? 

あなたが心の中の大切な誰かに会いたい時、とびっきりの1日を送りたいと思った時、この『すみれの空』というゲームをひとつ試していただけると、ゲームにことばを見出さんとするライター・ゲーム翻訳者冥利に尽きます。

ゲームとことば Advent Calendar 2023、12日目はわたしラブムーがお届けしました。引き続き、錚々たる書き手の方々のみやびな記事をお楽しみください。今年もハードで剣呑な1年ですが、このような愉しい企画のおかげで気持ちが潤います……多謝。みなさま、心やすい師走でありますように。

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