これまでの人生②〜大学入学まで

中学にあがると、硬式野球クラブチームに入り、中学の部活は陸上部に入った。この陸上は楽しかった。でも、心拍数を激しくあげるような運動をすると過呼吸になりパニックになってしまうので、激しい運動をする前にも薬を服用するようになった。幸いにも、僕は運動ができた。野球や陸上のおかげで自尊心を保つことができたと思う。しかし、野球でも陸上でも、本番の試合のような大切な時には思うように力が出せなかった。それはただ緊張のせいなのか、心の病気があるからなのかはわからなかった。ただ、僕は「この心の病気がなければもっとできるのに」と常に思っていた。僕の苦しみなんて誰もわかりはしないと思っていた。都合の良い言い訳を言っていた。

薬は2種類の薬を服用していた。1つは毎晩飲むもの。もう1つは不安感を感じ始めた時に飲むものだった。この2つの薬に行き着くまでに、3ヶ所ほどの病院を転々としていた。最終的には、高校の時に見つけた、一駅分隣の病院だった。ここの先生は、僕とコミュニケーションをちゃんと取ってくれた。転々とした理由は、話をしっかりと聞いてくれる先生がいなかったからだった。ほんとに不思議だった。どこの病院も毎回同じような会話しかしてくれないし、先生からはコミュニケーションをちゃんと取ろうとしてくれていない感じが伝わってきた。僕が選んだ病院がたまたまそのような先生がいたのかはわからないが、ただ普通に、ほんの少しの興味を僕に示し、話を聞いてくれる先生が欲しかっただけだった。薬だけくれる先生がほとんどだった。

高校へは野球推薦で入学した。野球にひたすら打ち込んでいたこともあり、高校では心の病気は少し落ち着いたようだった。この何かにひたすら打ち込む、一生懸命やるというのが、心の病気に対するキーワードのように今は思う。しかし高校当時もまだ、激しい運動の後の過呼吸はあり、そのため薬は服用していた。薬のせいか、倦怠感みたいな身体のだるさは常にあった。

現役の大学受験は失敗に終わった。国公立の大学を目指していたが、受からなかったため浪人の選択をした。浪人の、社会のどこにも属してないふわふわした感じに強い不安を感じるようになり、強迫性障害になった。もともと何回も繰り返し行為をしてしまうことは日頃からあったが、日常生活に支障をきたすようになった。この浪人時代が本当に辛かった。色々なことを繰り返しするようになり、繰り返ししても気持ちが落ち着かなくなった。勉強をしていても、頭の片隅は常に何か別のことでいっぱいだった。収まらない繰り返し、確認行為で頭が疲れていた。音にも敏感になってしまった。予備校の自習室のクーラーの音が気になって集中できないから、自習室も使えなくなった。まさかクーラーの音がうるさいとは誰にも言えなかった。対人恐怖症のような症状も出てしまい、外にも出れなくなってしまった。そんな中でも、補欠でも、立教大学に合格できた。その時の嬉しさは今でも忘れられない。苦しみから解放された時だったし、苦労が報われた時でもあった。合格してから、強迫性特有の繰り返し行為も徐々に少なくなっていった。日常生活も支障なく過ごせるようになってきた。

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