鮮やかな死

「あれが最後の会話でした。もっと話しておけば……!」
ありがちなセリフだ。故人と最後に交わした会話を悔やむ、悲劇のセリフ。ドラマでも小説でも、うんざりするほど出てくる。
だが、あなたは今朝家族と交わした会話を覚えているだろうか。唯一無二の友人と最後に会ったとき、どんなことを話したか覚えている? わたしは覚えていない。それは日常に埋没していて意識しない会話だからだ。そんなものがいちいち記憶に残っていたりはしない。
死はドライブレコーダー式なのだろうか。常に録画するのではなく、事故が起こったら、起こった事故から遡って直前を録画する。死という事件が起こってから、遡って記憶が定着する? 死はいきなり訪れるものだから、事故に例えるのは正しいのかもしれない。
そもそも、死は、そんなに人に衝撃を与えるものなのか。わたしは身内や友人が死んだことがまだない。遠縁の親戚の葬式に出たとき、死体の顔に触らせてもらった。冷えたゴムのかたまりのようで、モノという感触が強かった。大往生の葬式だったから、湿っぽくもなく、葬儀は滞りなく進み遺体は骨になり墓に埋まった。そのすべてが、退屈な終業式と同じようなものだった。ちょっと物珍しいだけ。
いつか、わたしの家族も死ぬ。祖父母が一番最初、病持ちの母、定年が近い父。妹だって不慮の事故で死なないとは言い切れない。
そのとき、わたしは何を思うだろう。薄ぼんやりとした諦めを抱くような気がしている。二度と会えないことへの諦め。
それとも、身を切られるような鋭い悲しみに襲われるだろうか。絶望が喉の奥を押し上げて、泣き声に脳が軋むような、嗚咽に肺の底が揺れるだろうか。
嗚呼、どんなふうにわたしは死を受け止めるのだろう。賢者は先人に学び、愚者は経験に学ぶ。わたしは愚者だから、経験しないとわからない。
祖父母に会いに行こうか。最近疎遠だ。わたしが故人に思い入れが強ければ、それだけ鮮やかな死を味わえるのではなかろうか。ははは、祖父母の死のとき、わたしは何を思うのだろう。楽しみなのだ。知らない感情に身を切られること。体験したことのないことを知るのは喜びだ。祖父母のことは好きだし、死んで欲しくない。だが祖父母の死というイベントは楽しみだ。そういうアンビバレンツな感情が、わたしの中には同居している。

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