#20180806

平成生まれの男女は割り勘が当たり前というような文言を見かけるにつけ、「男が奢る美学」は元々オッサンが生み出した幻想でその幻想の影響力が思ったよりも大きくて、どれくらい大きいかというとそれが社会の空気とか風習になってしまうくらい・・・と常々思っていた私が救われるような気持ちになります。
私はオッサンを独自の定義で使っていて、決して歳を取った男性というわけではなく、固定概念から思想を広げることが出来ず、やたら威張り散らし、チンケな知識や持ち物を自慢する人物としています。

要するに「私の時間を使いたいなら誘った男がご飯代くらい出して当然」とかのたまう女性も私の中ではオッサンです。
そして多分多くの方と同じように私はオッサンが本当に好きではないのですが、得てしてオッサンはまるで空気のように時代を支配しておりますので完全否定は出来ないのかもしれないですね。怖いです。オッサンを嫌う私の中にも確実にオッサンが存在しているその感じ、本当に怖いです。

どうしても奢るのを止めない同年代の男性友人にこんなことを言ったことあります。「その程度のこと(奢る)で自分が力持ってるみたいに錯覚するのやめてくれる?」と。

男女で収入の格差があったのだから仕方ないと美学の賛同者たちは口を揃えますが、「男が奢る美学」には収入格差以上に「誇示」という文字がチラつきます。力なのか権威なのかとにかく「誇示」

私も平気で人に奢ってしまうので気を付けなくてはいけないのかもしれませんが、奢る・奢られるの関係は何かの記念日やお祝いだったらまだしも、確実に対等な人間関係の妨げになります。
逆を言えば対等に付き合おうと思っていない人に対して奢るという行為が発生するのかもしれないとしたら、奢られる側がそれを甘受するってどうなの?と疑問もわきますよね。
多分奢る・奢られるはもう少し繊細な行為であっていいはずなのです。

話は変わりますが最近「ジェンダーレス男子」なる、男性性を感じさせない男性が美しいとされる傾向にあるようですが、私は昔からそのような男性を美しいと言い続けておりました。今、街を歩けば10歩ごとに現れる美しい男性は、ほんの15年くらい前までは1か月に1度遭遇出来たらラッキーくらいの存在だったということを強調しておきたいです。いかんせん「ジェンダーレス男子」は流行りではなかった(メディアが流行らせようとしていなかった)ですし「ジェンダーレス男子」という呼称すらなかったということはその存在が不確実で、多数に受け入れられていなかったということの証でもあります。

昭和生まれ41歳の私は平成の若者が変化したのではなく、人間の趣味嗜好が正常な感じにリセットされているのかもしれないとも、やっと少しずつ私も多数派になって穏やかに年を重ねていけるのかもしれないとも思っております。
殺伐としたことばかりが目につき頭を悩ませる日々の中で、とにかくなんだか少し良い感じの空気になっているという事実をきちんと自覚したかったゆえ、わざわざ書いた文章です。

本当は全然別の カメラを止めるな!を観て思ったことについてきちんとした文章を書こうとしましたら、いつもと違う口調になりました上、案外長くなってしまいましたので一旦ここで締めるとします。

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