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平家物語考

以前に映画や小説の怪談(小泉八雲)を読んで、耳なし芳一モチーフにアクセサリーを作りたいと考えました。その際せっかくなので平家物語を読んでおこうと軽い気持ちで手にとったのですが、結局読み終えるのに1年くらいかかってしまった。家だと寝てしまうので職場の昼休憩に読んでた。
しかしとてもおもしろく、まあまあはまって壇ノ浦に行ったりしました。写真は平知盛が築城した門司城跡から見た壇ノ浦です。その間アニメの平家物語や映画の犬王もあり、なにやら平家ブームでしたね。楽しかった。

現在「平家物語」として本屋によくあるのは琵琶法師の弾き語りの文章なので、すごくリズムがよく読みやすい。句読点の位置が至高です。今まで古文には興味なく短歌より漢詩の方がいいと思ってましたが、日本語よきかな、琵琶法師さいこう、我も和歌を詠みたいなりと改めました。
私が読んだのは講談社学術文庫の杉本圭三郎著 新版平家物語 全4冊です。元の平家物語は12巻+灌頂巻とのことで、長い…ダイジェスト版求む…と4冊なら許容範囲と考えたのですが、結局は1冊に3巻分入ってたのであります!しかし大きな字で振り仮名のある原文、現代語訳、言葉の意味解説、文章の研究・歴史的解説、最終巻に地図や年表もついてる!と、他の本を読まなくていい完訳でした。すばらしい。

理解を深めたいと調べたことをこちらに書きます。


何盛?
 
みんな似た名前で誰が誰かわからないし親戚関係も交錯している。
清盛公を基準とした等親ごとに列を揃えました。

<呼名の意味> 
・相国とは元は唐の役職名で日本の太政大臣の意味。
・判官、別当、中将、守(かみ)なども役職の名称。 
貴族の位(正一位とか従三位など、上の方しか殿上に上がれない。殿上人!) に役職が対応され役名(官位)が決まる=収入が決まる。大宝律令で始まった官位相当制、四等官制で、時代で違ったり増えたりでややこしいですが、吉良上野介の上野介は名前でなく役職名であると今更ながらに知りました。かしこくなった。
・冠者とはまだ役職がない人、元服済みで冠をかぶっている人という意味。
・大夫とは従五位以上の人(殿上に上がれる貴族)のこと。 
・「〇〇殿(どの)」というのは住んでた所で呼ぶみたいです。清盛=六波羅殿、重盛=小松殿

内容について
平家物語(平家の興亡は12世紀)は、源氏物語や枕草子(11世紀)の後のことで、13世紀鎌倉時代のある貴族が書いたものを琵琶法師に語らせ始めたとのことです(兼好法師談)。源平合戦やこの時代のことを描いた日記、歴史書は他にもあり(玉葉、吾妻鑑、愚管抄など)、「平家物語」も読み本系(延慶本、長門本、源平盛衰記)と琵琶法師の弾語りを記した語り本系(八坂流、一方流)があります。
この平家物語は覚一という一方流の琵琶法師のトップが14世紀にまとめた語り本です。主に鹿ケ谷の陰謀(1177年)あたりから壇ノ浦の滅亡(1185年)頃まで、頼朝や義経・弁慶のことはあまり触れられてなく(勧進帳とか出てこない)、最後の灌頂巻が八坂流にない秘曲とされ壇ノ浦で生き残った徳子のことを記しています。
 
・異様な清盛disと重盛あげ
作中では、平家が滅びたのは清盛がめちゃくちゃ非道だからだという非難が執拗に繰り返されています。ここでの非道とは道徳的なことより貴族の昇進の順番ぬかしが極悪非道!という記載が多く、死んだ時だけちょっと褒めてた。対照的に清盛の諫め役である重盛(清盛の長男)は思慮があり信仰深く人間的にもすばらしい人物だと賛美しています。
実際の人物像はわからないけど、物語的な面から悪い役、良い役、哀しい美人と役柄を振り分けてお話を面白くするためと、「平家が滅びたのは清盛が極悪だから神仏のご加護もなくなった」「平家が滅びたのは清盛が極悪だから源氏は下剋上や謀反じゃないし、法皇も院宣出したもん」と、新興といえど天皇の外戚にまでなった貴族を一族根絶やしにした言い訳、後に続く権力者の地位の正当性の主張という面があるようです。

・合戦部分の躍動感
義仲や義経については、田舎の人は…的な都人のいじわる描写が度々みられますが、それが合戦部分になるととたんにかっこよくなる。さっきまでの説教、再々出てくる中国古典の引用、末法の世を嘆く的な悲観的描写が消え、かっこいい馬で駆け一人当千の活躍、大将なのに先陣を切り、ありえない経路で攻め落とす。平家方も一の谷、屋島、壇ノ浦と合戦が進むにつれ前半にはあまり描写のなかった知盛や教経に焦点が当てられ、特に教経が最強武者的に描かれている。つよい!そして死に際もかっこいい!舟戦が多いので、浜辺に馬を走らせる情景が映画のように浮かんできます。
特に義仲の乳母子今井四郎兼平の最後は、古代の中国の武将みがあり大変よろしい。古代中国の武人は、戦で自害するとき倒れたら恥だと己で腰に剣をさして倒れないようつっかえ棒をして、自分で首を刎ね落としたそうな…ほんとか…

なんでこんなに違うのか。
もともと貴族が書いた原作を琵琶法師が語り、その原作に年を重ねるごとに部分的に、または新章として話が付け足されていった過程があるみたいです。当時の合戦に参加した人、その子孫などから具体的な話を聞いたりしたのではないか(映画の犬王でも平家の落人の村に琵琶法師が話を聞きに行く場面があります)。
そして琵琶法師は寺社に付属し法事や祭儀での祈祷や音楽を演奏する役割があり、また寺社の勧進(寺社の建立や修理のため寄付を募ること)や、戦乱が続くため死者の鎮魂(災害や不吉なことは怨霊のせい)という要素も加わり、彼らが奏でる音楽や説話は人々に身近でエンタメ的要素もありながら、盲目の僧が昔の貴族の滅びを語る口寄せ的な宗教体験、そして怨霊供養でもあったと思います。
時代が進むにつれ演目が増え、座(組合)が組織され、芸が磨かれていく。みんなが聞きたい人気演目は何度も上演?され演者も上手になっていき、言い回しや文章の前後が入れ替わったり、よりおもしろくなっていったのだと想像します。人気演目はやっぱり武士のかっこいい合戦場面だったり死の場面、または悲恋ものなどと考えると、この差はとても納得できます。説教やご高説より全然聞きたい。

・現在と違う寺社のあり方
物語中よくお寺が燃やされている。それも近隣住人込みで。
信長公が延暦寺を焼き討ちにした、魔王~罰当たり~と思っていたけど、昔のお寺は自前や寄進された荘園を持ち収入があり、関所で通行料を取り金融業を営みお金持ちでした。上級の僧は出家した貴族、下級の僧は武装して戦に加わり、寺社の領地内は幕府や朝廷の法律が及ばず、財政的に武士や貴族と互角の勢力でした。時代によって変化するが平安時代は南都北嶺といって、南都:奈良の興福寺を中心とした勢力、北嶺:延暦寺を中心とした比叡山全体の寺勢力が大きく、朝廷の政治や人事に介入し、異議があれば強訴(ごうそ)といってでっかいお神輿やご神木を御所の前に置きました。置かれた方は罰があたるし不吉なことが起こるからすごくいやで、じゃまで困る。やめてほしいので要求を聞いた。
また寺社間でも宗派や派閥で対立してよその寺を焼いたりしている。戦乱の時代ということもありますが、現代のように信仰に特化したものではなく、信長の焼打ちが特殊で魔王的な事例ではないです。歴史の授業で僧兵を習ったときはお寺の自衛みたいなものかと思ってましたが、積極的に政治や謀反に加担してて、そりゃ焼かれるわいと思いました。
結局このような寺社勢力に対抗するため都に武士を置き警護するようになるのが(北面の武士という:都の北側=北嶺対策)、平家の台頭、後の武士の時代につながっていくのですね。歴史だ。
また清盛が福原に遷都した理由も貿易面だけでなく、寺社勢力から距離を置くこともあったと思います。

中世寺社についてはこちらの小論「中世寺社勢力の実力」がとても分かりやすいです。検索するとPDFがでてきます。


・みんなよく出家してる
清盛は最後熱病で死去しますが、その10年くらい前にも病気になってその際出家します。でもその後も普通に官位について政治や戦をしている。鹿ケ谷事件時の清盛はすでに出家しており、激怒して僧姿の上から鎧を着る場面で罰当たりポイントを重ねております。
後白河天皇は息子の高倉天皇に譲位し上皇となり、その後出家し法皇となります。法皇も同じで仏教的な戒律とか関係なく暮らしてるっぽい。清盛から女御を差し出されたりする。
普通出家するとお坊さんになって毎日修行したりお経を唱たりで俗世を離れると思っていたけど、あんまり関係ないみたいで現在の感覚と違う。なぜだろう。
中世日本では貴族などが極楽往生するため臨終の前に出家するのが流行っていたらしい。なので病気になったら出家してお迎えに備えるけど、回復したらそのまま元の生活をするようだ。藤原道長も関白の時に病気になって出家しているが治ったようで、権力者なので出家後も今までの生活をするのに誰も文句は言えず、臨終前の出家が時代ごとに天皇や貴族、また庶民にまで広まっていったようです。他にも政治的失脚や隠遁目的、普通に仏門に入る等の出家はありますが、このような臨終前出家という形態もあったようです。

参考文献
日本宗教史研究の課題. 三橋 正. 大正大学. ジャーナル フリー. 2002 年 2002 巻 11 号 p. 22-34.
中世社会における「出家入道」の基礎的包括的研究 平 雅行 大阪大学 2010 – 2013


物語の伝播について
出家といえば作中の俊寛は、喜界島に島流しにされ一人だけ許してもらえず島に置き去りにされました。そこに有王という元召使の子が身を案じ訪ねてくる話があります。俊寛は島で死去しますが、その後有王は俊寛の弔いのため高野山で出家し、この俊寛の物語を諸国をめぐって伝えていくそうな。作中他の様々な人物が熊野詣をしたり出家し高野山に入ったりしていますが、彼らの物語も高野山発の高野聖(活動目的は勧進や読経)によって諸国に伝えられた面もあるらしい。この辺は柳田国男先生の高野聖論をどうぞ。
平家物語が盲目の琵琶法師や高野聖など、主に遍歴の宗教身分によって語り継がれることについて、より民俗学的見地からも考察できそうです。
社会の外縁に位置する者がやや神話的でもある滅びの物語を長期間語り継げたことについて、「物語を語ることとは、現在、この地点で、かつて(文学的、隠喩的意味で)他界にいた者から得られる権威を持って語られることであるからだ。」というカルロ ギンズブルク先生の言葉が思い出されました。しかしこの辺は沼なので、思い出すだけにします。       つづく


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