見出し画像

ラフマニノフ3「ピアノソナタ2番Op.36」を着想したのは、かつてチャイコフスキーが使っていたローマの仕事部屋だった

今回は、ラフマニノフが1913年に発表し1931年に改訂した「ピアノソナタ2番変ロ短調Op.36」について、彼の手紙や当時の批評などを探し、私的日本語訳を作ってみました。4月1日はラフマニノフの誕生日🎂。また、2021年シーズンから亀井聖矢さんはラフマニノフのソナタ2をプログラムに加え、コンチェルトも2番と3番を演奏しています。
では、早速どうぞ👇

1912年12月5日、作曲に集中できないラフマニノフは家族を伴い旅に出ます。まずはベルリンに向けロシアを出発、スイスを経由し、最終的にローマに滞在します。ローマでの作曲についてラフマニノフが語っています:

「ローマではスペイン広場のアパートを借りることができた。そこは、長年モデスト・チャイコフスキー(作曲家チャイコフスキーの弟で劇作家)が借りていた部屋だ。兄ピョートルが知り合い達から離れて一人になりたい時に使っていたアパートだったんだよ。部屋数は多くないけど、日陰ができて静かでね。誠実な洋服の仕立て屋さんがオーナーだった。

家族と寝泊まりする宿は別に取って、毎朝作曲のためにそのアパートに通い、夕方まで仕事をした。孤独ほどありがたいものはないね。一人でいる時だけが、私にとって作曲ができる時間なんだ。アイディアが湧くのを妨げる外からの邪魔が一切ない時だけが、私の作曲の時間。

スペイン広場のアパートの環境は理想的だった。1日中ピアノやデスクに向かい、ピンチョの丘の松が夕日を浴びて金色に染まる頃ようやくペンを置く。ソナタ2番と合唱交響曲「鐘」を書くことができた。」

その後、娘が病気にかかりローマから急遽ロシアに戻ったラフマニノフ一家。8月9月を自然に囲まれたイワノフカの屋敷で過ごし、そこでソナタ2番は完成します。ショパンのソナタ2番を公演でもよく弾いていたラフマニノフ。ソナタOp.36は、ショパンのソナタと同じく2番で変ロ短調です。1915年12月、ロシアの音楽誌に掲載された批評があります:

円熟した偉大なる才能が生みだした曲であることは間違いない。だが、この曲は、ラフマニノフは詩人ではないという印象を与えないか?いや、その反対だ。この曲には、内面に彼がずっと持ち続けているもの、厳しさ、自分の心の奥底を見つめる何か内観のようなものがある。ラフマニノフはこの曲を通して、心で感じたままをぶつけているというより、内に抱えている思いを語っているのだ。 by 音楽評論家 Tyuneyev

1913年に完成したソナタ2番。その後、ラフマニノフは「自分の初期の作品を見るにつけ、なんて薄っぺらいんだろうと思うところが多々あって(1931. 6. 20)と言って、ソナタ2番を改訂します。技巧的なところを中心に120小節カットし、全体的に簡潔明瞭化したそうです。1932年8月15日付の手紙で、ショパンの例を出して、自分のソナタ2番に改訂が必要だったことを語っています:

「このソナタ2番でさえも、同時に歌っている声が多すぎるし、そもそも長すぎる。ショパンのソナタは19分だ。しかもその中に、ショパンが言いたいことが全てきちんと詰まっているじゃないか。」

ラフマニノフは改訂版(1931年)を翌年の公演プログラムに加えました。しかし評判は期待したほどではなく、まもなく弾くのをやめています。

1942年、ホロヴィッツが、オリジナルと改訂版を合わせた複合版を作ることを提案したところ、なんとラフマニノフの答えはイエス。「君はいい音楽家だ。うまく合わせて、私のところに持ってきてくれ。どのようなものが出来るか見てみよう」と答えたそうです。しかしこの版も評判が上がらず、現在は1931年版が最も演奏されているそうです。

ちなみに、改訂版ソナタ2番が加わった1932年のラフマニノフのプログラムには、リストの「夕べの調べ」も新たに加えられていました。

ソナタ2番は、合唱交響曲「鐘」と構想時期が同じで、曲中にロシア正教の大小の鐘が鳴り響いているとも言われているそうです。そこで、次回のラフマニノフ祭2では、鐘について、ラフマニノフが語っている箇所を英書から引っぱってきて、ご紹介したいと思っています。最後までお付き合いいただき本当にありがとうございます。(References: Scott, 2007; Bertensson, 1956; Swan, 1944; and Riesemann, 1934)🔚

今シーズン、再び、💚亀井聖矢さんのラフマニノフソナタ2番の演奏が聴けそうです。
昨年のsala ariettaでの公演で弾いたラフマニノフソナタ2番最後の部分、ご自身のツイッターにあげてくれています、ぜひご覧ください