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ラフマニノフ8「協奏曲第3番初演:米国ツアー振り返りとマーラーの思い出」

この写真は、1909年夏(36歳)、イワノフカで協奏曲第3番のスコアを校正するラフマニノフです。同年秋にスタートした米国ツアーで初演されたこのコンチェルトを、亀井聖矢さんがいよいよ初めて演奏します(9/28杉並公会堂)。今回は、応援の意味を込めて、ラフマニノフがこのツアー中に故郷に送った手紙、帰国後に語った米国ツアー振り返り、マーラーとのリハーサルについての回想を、思い切った日本語訳でご紹介します。

当時の米国ツアーと言えば、地方からスタートするのが習わしで、リサイタルは11月4日のノーザンプトン(北東部マサチューセッツ州)が初日、コンチェルトは2番で11月8日のフィラデルフィア(東部ペンシルベニア州)が初日。協奏曲第3番の初演は11月28日、指揮ダムロッシュ・ニューヨーク交響楽団で、カーネギーホールで行われています。この米国ツアー、なんと3カ月にも及び、その間ラフマニノフは、不満を伝える手紙を露国に何通も送っています。いとこZoyaに宛てたものをご紹介します。

ラフマニノフの手紙(1909年12月12日 ニューヨーク ホテルNetherlandにて):「かわいいZoyechka、手紙をありがとう。君は優しいね。おかげでとても幸せな気分になれた。というのも、このやっかいな国に在るのは、アメリカ人と『ビジネス』だけ、とにかく『ビジネス』。永遠にやっているんだから。あらゆる人が商売っ気たっぷりに私を追い回す。なので、君のような気立ての良い露国の女の子から手紙をもらえて、大いに気持ちが晴れた。本当にありがとう。

すぐ返信できなくてね。とにかく忙しくて、疲れ果てた。毎日『神様、どうか、私にチカラと忍耐をお与え下さい』と祈っている。みな私を丁重に扱ってくれるんだが、そういうものにも、もうウンザリでね。今ここアメリカで、私という人物はあまりにもチヤホヤされている、それが私にはよくわかる。キレそうになることさえある。あと2カ月も、こんな日々が続くよ。」

(音楽を持っているのはラフマニノフ.... ツアーの途中で彼の心のエネルギーが枯渇しなくて良かった....) 次は、帰国後に行われたインタビュー、『米国ツアー振り返り』です。

ラフマニノフ:「アメリカでは、気が休まりませんでした。考えてみてください、3か月間ほぼ毎日公演がある状況を、しかも自分の曲ばかり演奏し続ける… 成功はもちろん嬉しいですが。アンコールは大抵7回は弾きました。米の聴衆は驚くほど温まらないんです。彼らは一流のアーティストに慣れきっていて、常に何か斬新なものを求めていました、今までにない何かを。アメリカの新聞は、カーテンコールが何回あったか書かなきゃいけないんですよ。大衆がその回数を、アーティストの才能の物差しにしているので。」

そんなラフマニノフが、米国ツアーで最も期待を寄せていた公演が、ツアー終盤に組まれていた協奏曲第3番の3回目の演奏、1910年1月16日のニューヨーク・フィルハーモニックとの共演でした。指揮は就任したばかりのグスタフ・マーラー。ラフマニノフがリハの様子を回想しています。

ラフマニノフ:「当時、私が、ニキシュに引けを取らない唯一の指揮者、と考えていたのがマーラーでした。彼はとても複雑なオケパートの演奏を、完璧な水準にまで仕上げようと、長いリハを終えてもなお、さらに延長してまで、練習してくれた。それほどまでに、この協奏曲に自らを捧げてくれた。マーラーはスコアの全ての細部が重要だと言ったが、ああいう姿勢は、指揮者には稀です。」

別の回想で、より詳しくそのリハーサルの様子を振り返っています。

ラフマニノフ:「リハ開始は10時、私の入りは11時の予定でした。いい時間だと思いましたが、終了予定時刻まであと30分の12時まで合わせは始まらず、ようやく始まると休みなく弾き続けて、予定を30分オーバーしようが、マーラーは気にも留めない様子でした。終了時刻を45分過ぎたところで、マーラーが『第1楽章をもう一度』と言った時には、心臓が凍りつくかと思いました。オーケストラからは文句の嵐だろうと思ったからです。普通はそうですから。ところが、あの時は違った。一言も不満が出なかったんです。メンバーは熱心に、より集中して弾いていたと思います。

ようやくリハが終了し、私が指揮台に行って、マーラーとスコアをチェックしていると、後ろでオケのメンバーが静かに楽器をケースにしまい、帰り支度を始めたんです。するとマーラーが『何をしているんだ?』と怒鳴ったんです。『マエストロ、もう1時半です』と団員の1人が答えると、マーラーは、『そういう問題ではない。私がここに座っている以上、あなた方は勝手に立ち上がってはいけない!』と言ったんです。」

この米国ツアーは、音楽的にも興行的にも大成功だったそうです。ラフマニノフには、ボストン交響楽団指揮者就任について打診があったようですが、ホームシック気味の彼はこれを断っています。肝心の協奏曲第3番の評判ですが、米各紙の批評には『長い』と書かれたそうです。一方、『一流のアーティストを聴きすぎた温まらない聴衆』とラフマニノフが言った観客の反応はというと、カーネギーホールの聴衆はこのコンチェルトを大いに気に入り、拍手喝采で彼を讃えたそうです。(References: Bertensson, 1956, and Matthew-Walker, 1981)🔚

最後まで読んで下さった皆様、ありがとうございます。次回は、協奏曲第3番を献呈されたホフマンと互いを誉め合うラフマニノフ、そして、ラフマニノフの大ファンだったホロヴィッツとの交流を、ちょこっとご紹介したいと思います。あともう一つ、亀井くんの初ラフ3応援を作りたいと思います!

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