日記⑧〜思考することを癖にしたい〜


2024.6.18(火)

生きる日数を重ねるたびに、自分がだんだん物事を考えなくなっているということに気づきだした。

目の前にあることとか、誰かによって確立された事象を何の疑いもなく、ただそのままに受け入れすぎている気がしてたまらないのだ。

とは言っても、別にやたらめったら哲学的な難しいことを言おうとしている訳でもない。

科学的に決まっていることを今さら思考を働かせて覆してやろう!とかそういういかれたレベルの話がしたい訳ではない。というかできるかそんなもん。

なのでこれは、
「人の意見とかそういうものを、自分の中で噛み砕くことなく受け入れすぎている」
という意味なのである。


たぶんそうなってしまった原因は完全にSNSの見過ぎなのだとわかっている。

素早く発せられる手軽な言葉ばかりが並ぶあの世界に入り浸りすぎると、自分で思考することを極端に減らして、目の前にある簡素な言葉をそのまま鵜呑みにしてしまうことが非常に多い。

私は変にプライドが高いタイプの人間だから「私はSNSに振り回されない!我には我の意見がある!」と思い込んで鼻息荒く過ごしていたけれど。

そうは意気込んでいても、実際はふと飛び込んできた軽い言葉に対して、何の意識もなく「へ〜そ〜なんだ〜」と当たり前に丸飲みしてしまっている自分に気づきだした。

意味とか考えを噛み砕きすらしないのだよ。
素材そのまま丸飲みなのだよ。


知らないからこそ人は考えられる。
なのに、今はなんでも手軽に知れるからこそ自分で何も考えなくていいに変わっていっている。

これは非常にまずいことである。

このままいけば、私はひどく薄っぺらい人間になってしまう気がしてならない。

世の中の常識的なこととか、大きな発見とかは、素敵な誰かが見つけた何かをそのまま受け入れたっていいと思う。

そうやって世の中は発展してきたし、学んできたはずだから。

ただ、大事なのは、抽象的な何かに対しての思考。

生きることには直接関わらないけど、自分の思考が無くなってしまったら寂しくて悔しいもの。

自分にとってそれは好きな音楽とか本とかだ。


こういうものへの感想とか意見とかは、誰かのものを丸飲みするのはひどくもったいないし、切ない。

しかしやはりSNSとかだと、たくさんの共感を呼ぶ大きな感想はがりが目について、自分もいつのまにかそれに飲み込まれてしまう気がするのだ。

別にそういう大きな感想を否定する訳でも、それとは逆の意見を持ちなさいね、という訳でもない。

ただそれをそのまま受け入れて「なるほど」と思う前に、自分でまずはよく噛んで味を出すといことを忘れたくないのだ。

「甘いよ」と言われたから「うん、甘いね」ではなくて。

まずは自分で食べてみて、どういう甘さがあるのかを考える。

この甘さには、コクがあるのか、はたまた濃厚なのか、それとも爽やかなのか。

甘さといってもひとつではない。
そこにはニュアンスの違いがしっかりあるのだから。

そして甘さを確かめたら、今度はどういう甘さがしてどう言う後味が残るのかを、自分の言葉で頭の中で組み立てる。

それをすることが、娯楽を受け止めるには大切であるはずなのに、最近は自分の中でどんどん忘れさられていることのような気がするのだ。

それはたぶん自分に自信がないから、という面もあるのだろう。

難しいね。便利な世の中もさ。
かと言って全てを便利な世の中のせいにして自分で考えることを疎かにしているのは、完全に私の悪いところだ。



猛省☆


ここまでSNSにどっぷり浸かっていなかった頃は、自分で丁寧にノートに書いた好きなバンドの曲の歌詞を見て、ひとりでじっくり考えて感動して泣いたりもしていた。

大人になった今よりも、あの頃の自分の方が頭が良かったし、可愛かったし、とち狂っていたが、すごく素敵なファンであった気がする。


好きに対しての思考をサボらずに、というか…そういうことすら本当は考えたくない。

なので、考えるということをまずもって癖にしよう。

当たり前のように考え当たり前のように自分の言葉にする。

それをするためにこうやって日記を始めたのではないか(だいぶサボりがちだけど)。


寂しいアホにならないように、ある程度知的でアホな存在でいられるよう努力しようと思う。


というかそれを普通にしたいよね。



思考溢れる人間なのだもの。



おわり

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