光函原画2b

光函

夕立三日


何日も続いた雨がぴたりと止んだ午後、朝からくすんだ眼をして、ベッドの上で丸くなっていた犬のハナと散歩に出かけた。
 長い坂道をゆっくりとあがっていった。坂道はケヤキの並木道で蛇のようにくねっている。長い梅雨の間に葉は繁りに繁り、葉を透けてくる光は、今までよりも濃く緑に染まっていた。
 壁に沿って歩いていると、前方から自転車が次々と滑ってくる。この道の突き当たりは大学の南門で、その駐輪場から流れるように降りてくるのだ。
 犬が壁の匂いを嗅いで止まっている間に面白い事に気がついた。
 次々と坂をくだってくる学生たちのうち、男子学生のほとんどが得意げに両手を離しているのだ。次から次と。そして、みんな無表情なのがおかしい。
 雨あがりの空気はきれいに澄んでいて、ゆるい風が吹いていた。クスノキの細かな葉は光を乱反射する緑の鏡になって、雨でぐしゃぐしゃになったグラジオラスの赤や黄の花は濡れた紙のオブジェのように立っていた。
 微かに水を含んだアスファルトの上をぼくらは歩いていった。
 大学の門の手前を左折すると、イチョウの並木が、薄いグレーと緑を混ぜたような翳の道をつくっていた。光で少し傷んだ眼にはとても気持ちがよくて、ハナが1本1本のイチョウの根元の匂いを確認しているのをいいことに、葉を透かして空を見たり、空気の感触を確かめたり、向こうからやってくる学生たちを眺めいた。
 すると、こんどは走ってくる学生のほとんどがポークパイハットを被っていた。
 ぼくが少し首を傾げたのかな(流行?)。ふっと微笑みをくれた女性がいた。彼女は薄い更紗を首に巻いていた。頭にはポークパイハットだ。
 やがて並木道から坂を下って歩いていった。この道は二つの古い寺の伽藍と伽藍の間の道で、右側が土塀になっている。崩れかけていたそれを、最近修復工事しているのだった。その右手の土塀に沿っていくと寺の門が現れる。それほど広くはない。
 今日は土塀の表面がコテできれいに整えられていた。その美しい面にしばし見とれていた。
 その時夕立がきた。
 いきなり大粒の雨が落ちてくる。慌ててハナと門まで走り雨宿り。雨は激しく降りだし、しばらくは身動きが取れない。すると若い女性がひとり頭を抱えながら走ってきた。ポークパイハットは被っていない。小さく悲鳴をあげながら門の下に跳びこんでくる。ハナが嬉しそうに巻き尾をぷるぷるさせて、光る眼で彼女を見ている。肩にかけた鞄からちいさなハンドタオルを差しだすと、すみません、とちいさく頷いて髪と腕とうなじと手と…次つぎとぬぐっていく。
 ハナがきゅうん、とないた。
 雨はますます激しく、動きはが取れない。門の横の栗や欅、楓などの緑がどんどん鮮やかになるのを見ていて、ふと土塀の異変に気づいた。壁が雨で削られ始めていたのだ。正確には塀の上の割れた古瓦から流れる水が土壁にあたって、ゆっくりと削っていたのだ。壁の中に埋めこまれ、完成した時は透けて見えていた藁がむきだしになりつつあった。
 ぼくはなにか叫んだのだと思う。
 ぼくは雨の中に出た。肩の鞄から、犬のために用意しているビニールの袋や折りこみ広告をたたんだものを慌てて出して、その瓦の上にいくつも載せていった。流れが止まり、新しい仮の「庇」みたいなものができた。
 門の下に戻ってハナにかがみこみながら溜息をつくと、布の感触が首筋にあった。
 その女性が拭いてくれていた。

 
 
 次の日も朝から空は鉛色だった。雨は降らなかったけれど、光は鈍いままだった。ましてアスファルトとコンクリートがいちばん色を占有している街である。そこに空の色が加わり、まるで鉛色の箱のなかにいるような気分になる。そんな街には赤や黄の原色が似合う。だから長靴や傘の子供たちは街に映えていて、大人たちは翳のなかに沈んでいた。
 我が家には犬が二匹いる。ひとつは柴系の雑種、ハナ。もうひとつはピレニーズのジャン。ピレニーズというのはその名の通りピレネー山脈に先祖を持つ巨大な犬である。ハナの体重が16kgに対してジャンは70kgになろうとしていた。老犬のジャンは足が弱っていて、よほど体調がよくなければ外には出なくなっていた。家の中でも排泄ができるように場所を作り、そのように訓練もできてはいたから、なにがなんでも外でなければ排泄をしない、ということはなかったけれど、やはり犬自身はやはり外がいいのか、動けるときは何とか外で排泄をしようとしていた。蒸し暑いこの朝、ジャンは寝ていた。顔を少し上げて、大きな輝く眼をふっと閉じるのが、いつのまにかぼくらの間の「合図」になっていた。

 ハナと朝の散歩に出た。
 昨日の土の塀の前を通った。塀は青いビニールシートにすっぽりと覆われて瓦と土壁がどうなっているのかは窺い知れなかった。昨日この門の下で、あの女の人とはそれ以上言葉を交わさずに、雨が上がるのを待った。ぼくも喋らなかった。出さなくても構わないような、不思議な気配があの時、漂っていたものだから。
 歩いているうちに空の灰色が緩んできて、光が少しづつこぼれでてきていた。土の塀を過ぎたあたりではだいぶあたりは明るくなり、道路や葉が輝きだしていた。ハナが草を食べ出した。細い雑草で、このあたりを行く犬たちの多くがこの草を食べる。その草は金網フェンスの向こうから道へはみ出して生えていた。フェンスの向こうは空き地だった。一面の雑草である。見つめていると、空き地に光が溜まりだした。草の輝きが内へ向かっていて草全体で輝きだしたので
ある。まるで光の「函」だった。空き地の中が白く輝きだしていた。
  ぼくはその空き地の光に見とれていた。 「きゃうん」とハナが高い声でないた。 帰らなければ。うん、ジャンが待ってるもんな。
 空の色が灰から白に変わり始めていた。だけど、と思う。 今日もきっと夕立だ。「夕立三日」の季節だからね。
 ハナが腰を振りながら家に向かって歩き始めていた。



 昨日、家に帰ってから、夕立が来た。あたりを轟音が埋め尽くしハナは居間のカウンターの下に隠れてしまった。ジャンは雷に吠え返した。頼もしいけれどうるさい。 「もういいんだよ。いいんだよ」とジャンをなだめたけれど、ジャンは本気で雷に怒っていた。二階の猫たちは雷に恐れをなして、どこかにひそんでいる。猫たちは「気配」を消すのがとても上手で、狭い家の中だというのに、どこにいるのか全然わからなくなるときがある。
 そんな猫が3匹いる。
 夕立はいったん上がったのだけれど、雨は深夜にまた、凄い音を立てて降ってきた。水が地面を力任せに打ちつづける音を聴きながら眠った。
 早朝の散歩の時には雨は止んでいて、街には薄い光まで射していた。いつもの散歩の道にはいくつも花柄が落ちていた。真っ白なシャクナゲ。オレンジのノウゼンカヅラ。アスファルトの坂道は砂粒まで洗い流されて、清潔に見える。その上にそっと置いたように花の骸がならんでいた。
 もう夏だ。たぶん今日、夕立が降って、明日からはからりと晴れ渡る。天気予報が何を言おうとそうだ。そして夜にはハネ蟻が街灯の周りを飛び回るだろう。
 今までがそうだったから。「夕立三日」だから。
 夕方、夕立の前に犬の散歩を終えなければ、そう思って早めに家を出た。土塀の前にくると、どういうわけかビニールシートがはずされていた。ぼくが掛けた紙とかビニール袋も取り外されていた。職人さんが壊れた状況を確認に来たのだろう。それにしてももうすぐ夜だ。のんびりしている。
 長い涙のかたちに抉れた壁のなかにそっと指を入れてみた。細かな石の微粒がすぐにこぼれてくる。早く手当てをした方がいいだろう。ハナを待たせて壁を調べてみると、「涙の形」が三つほどあった。
「こんにちは」
ふいに声をかけられた。
「ワンちゃんの名前教えてください」 振り向くとこのあいだの女性だ。もうしゃがみこんでハナの鼻の頭を撫ぜている。ハナの巻き尾がバタバタと揺れている。
「ああ、こんにちは。ハナっていうんです。…この前はどうもありがとうございました。御礼も言わずにずいぶん失礼しました」
「いいえ。こちらこそ。ああハナちゃんね。きれいな顔」
「壁、抉れちゃって」
「うん、瓦を治さないと。せっかくきれいに塗られた壁なのに、もったいないですよね」
「この土壁の間を歩くとなんだかとても落ちつくんで、この道が大好きなんです」
 その時、音のない稲光があたりを明るくした。 (まずい。)
「光が吸われて行くような感じですよね。輝かないというか、光を染みこませていく感じがして」
 彼女がしゃべり終わるか終わらないうちに雨が降り出した。夕立だ。 寺の奥から職人達が走ってきて、あっという間に青いビニールシートで壁を覆った。
 ぼくらはまた立ち尽くしたまま、またしても門の下に逃げ込んだ。

 犬の話をした。彼女は昔、実家でずっと柴犬を飼っていたという。もちろん犬が大好きで、今はアパート住まいだから飼えないけれど、将来は絶対に犬と暮らすという。
「やはり柴、ですか」
「そう、柴犬ですね。ちいさときの『いぬころ』ってかんじがたまらないし。負けん気が強いし強情だけど、とても人に忠実、っていうか優しいんですよね」 そういいながらハナのあたまをずっと撫ぜてくれている。
 三日目の夕立はあっという間に上がった。
 もう少し話をつづけたいな、そう言おうとしたら、いつのまにかリードをつかんだ彼女がハナと一緒に歩き出していた。 彼女の後髪が、射してきた光に輝いている。
 夏が来ていた。         (了)


胡麻屋の辻



 ひだまり

いつまでも光の燐粉が降る
地上の猫  地中の種  待ち人の白い腕
漲る光のいれもの
熱に抱かれ
音がとけて    無
時がほどけている気配
縛りを解す
やわらかな手のような
ひだまり
光が世界に反射する
鋭くなる影と
この世を離れていく
忘れられた約束を連れて
胡麻屋さん
坂の上で白いのれんと柳が揺れている
白い腕がゆっくりと
横に切っていくよ
遠くから「はぁーい」
夢のように「はぁーい」
すぐに鎮まっていく気
瓦の上で猫が輝きだす
白胡麻黒胡麻練胡麻大中小
「いつものでよろしおすか」
「ところで、黒猫が柳の木からお宅の瓦に飛び移ってますよ」「はい」
「ところで、家のものが大好きでいつもおいしいいうてるんですよ」「おおきにぃ」
瓦の猫がゆっくりと眼をひらく
「おまえは胡麻がいいのか、このひだまりが好きなのか」と猫
「ごまぢゃ」
陽がぬくもりをくれるから
すみません どちらでもあるのです
胡麻屋さん


 胡麻屋の辻

今月も胡麻を買いに公園から街を擦りぬける
胡麻屋を見通せる角に来ると、柳の下に少年が立っていた
胡麻屋はちょうど辻の角にあって、坂の上から下へ、昔川だった道が行き
胡麻屋の角で欄干だけを残した橋のある道と交叉している
欄干の道を少女が歩いてくるので、ふたりが恋人だったらおもしろいなと
思ったら 見つめあっていた
欄干から折れて少女が少年の前に立っている
ああ、君たちは水の上に立っているように見えるよ
そうだ 水の上に立つのなら君たちのようでなければね
水であることを忘れるほど
人を好きにならねばね
ああ、みごとに立っている
「ここ、ごまやさんてわからへんね」
「そやからここなんや。盗み聞きされたかて誰もわからへんやろ」
白い麻地に薄茶でちいさく「ごまや」
まぁ、わからへんよね
きちんと前を向いて
「ごめんください」
遠くから「はぁーい」
夢のように「はぁーい」
…ココノゴマハウチノモノガダイスキデイツモオイシ…
「いつもので」「はい いつもので」
白胡麻黒胡麻練胡大中小のうち白胡麻大をいただく
「おおきにぃ」
辻に出るとふたりは消えていて
柳の枝が二本 折れてなくなっていた
胡麻屋にいる間に突然、水無川に水が溢れて流されたんだろうか
坂だけが濡れて輝いていた
わたしは白胡麻の瓶を持って胡麻屋の辻から駆け出した
わたしのうしろに
鬼がいたのだ
   


 耳の中の雨

もうまもなく天気は崩れていくだろう。
すでに雲は形をなくし空気はいちめん薄墨に染まっている。
空を仰ぎみながらときおり吹く突風をかいくぐっていた。
約束の胡麻屋の辻まで急がねばならない。
雨は誰も待ちはしないから。
首に一滴の雨粒が落ちた。 まだ続いては落ちてこない。
西に傾いた日が雲のフィルターを透して微かな光を街に染みこませようとしている。
急いだ。
車と自転車が車間数センチで神業のような離合をやってのけている通りだ
走れなかった。
遠雷が響き、とうとうアスファルトに黒い染みが打ちこまれだした。
急いだ。 急いだ。
彼女は土砂降りでも柳の木の下で待っているだろう。
デッキシューズがつま先から濡れていく。
乾ききっていた柳の葉が一斉に生気を取り戻していく。
突然、一気に雨がきた 頭といわず手といわず雨が
打つ、打つ、打つ、打つ、打つ、打つ
胡麻屋の辻が見えてきた。
柳の下に彼女はいない。
と、暖簾から白い手と腕が揺れている。
 駆けた。
「雨、やり過ごしてから来ると思ってた。
時間もまだあるし。あーあ濡れちゃったね」
ふたりの頭上で激しく雨が屋根を叩いている と遠くから「はぁーい」
「すみませんあまやどり」「どおぞ、よろしおす」
あまり雨音が大きいので二人の言葉が消えた。
激しかった夕立は一気に退いていき
透明な空気が漂い始めた。
空が凄い速さで色を回復していく。
くっきりとした群青
浮かぶ白い三日月
「ほら、あれ」
指さすほうを見つめると
五本の電線の上に白い三日月が乗っていた。
「ああ『E』!やね」「マイナーの!」
ふたりの頬が繋がり
水の輝く坂を下りはじめた。
二人の耳の中を ちがう音の
脈が打ちはじめていた。



 椿婦人
 

 辻から三軒東のおばあさんと仲がいい。猫好き同士。去年、二年間洗えなかった木戸をわたしが洗ってから、特にいい。
「胡麻屋さんの屋根の上の黒猫とうちの三毛ちゃんが恋仲らしいのね」
「難儀なさるならわたしから奴にいって聞かせましょう」
 そんな話を。最近は。
 おばさんは「椿まにあ」だ。玄関先と奥の坪庭に木の棚を作って、鉢の椿をづらっと並べている。自慢は全部挿し木ということ。垣根の折れた枝、剪定された枝、花屋の捨てる枝、新鮮さが勝負だと笑う。
「あー、捨てられたものばかしでね はは。はは わたしと一緒だね はは」
 なんちゃって、という。
 今日はおばさんのご用事。
 道すがら、屋根にいた黒猫に向かって「三毛ちゃん、だいじょぶか」というと、睨まれた。
「ちゃんとしいや」と釘をさす。
「こんにちは、胡麻屋の奥さんから聞きまして、何かご用だとか」
  ふにゃ、といって三毛さんが先に出てきた。
「あんたを見こんでのお願いなんや。坂の下の寺の墓地しってるやろ。 あそこの椿をちょっと頂いてきてほしいんよ」
「ふにゃ、ふにゃ」三毛さんが私の眼を見てしゃべっている。
「おやおやこの子はあなたが好きなのやね。ねぇ、あの黒いのをやっつけてもら いましょうね」
「ふにゅあ、そやないにゃん」

 真昼間の墓地の空気は真っ白で、音ひとつしなかった。おばさんの指定した木は 不思議な花をつけていた。遠くから見ると青紫、角度を変えると黒にも見える。蝶の羽根のような花だった。
「あのお墓はね、もう何年もほったらかしで、あの椿も伸び放題なんよ。お参りに来る人の邪魔になるから、明日切るて、管理の造園屋さんがいわはったから」
「あかんよ。生木切ったら。剪定した枝をとってきてほしいんや。わたしは地代がたまっていて、ちょっとうろうろしにくうてな」
 墓地の外れに、古い供花、お供物、ゴミやら落ち葉やらが寄せてあった。 その上にひときわ鮮やかな緑。あの椿だ。
花芽のついた枝をいただく。胸からおばさんの真っ黒な花鋏を
            ぱちん
 音が響くと、手が汗ばんだ。また、鬼でもでるのか。もう堪忍や。 枝を三本。袋に入れてゆっくりと帰る。
(そや、これはごみや。ごみを再生するのや。花泥棒ちゃうぞ。)
 それでも嫌な予感がしたので、早足になった。
 寺を出て坂を上って、胡麻屋の辻にさしかかると、屋根の上で黒と三毛が並んで 丸くなっている。眼を瞑って いいじゃないか。

「もしもしこんにちは」木戸をくぐる。
「おおせの椿、頂いてまいりましたよ。なんとも不思議な色の椿でありますな。 あ、ところで黒と三毛ちゃん。あれはあきません。夫婦気取りで、もぉね。 もしもし もしもし もしもーーーーーーーし」
 町屋は奥まで戸が開け放たれていて、覗き込むと、いちばん奥の坪庭でさしこむ光がおばさんを浮かび上がらせていた。
 おばさんは一心不乱に椿の葉を拭いていた。
 まばたきもしない眼は鉱物のようだった。
 椿の枝が かさり と動いた。
                              (了)
 
            


  

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