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街函

こうつと、こうつと



 暑い。とにかく暑い。
 どうもこの家のものは、猫は暑さに強いと思いこんでいるふしがある。犬はいい。はぁはぁと舌を垂らし、これ見よがしにアピールできる。
わたしたち猫にはそれがない。くそぉー。
 今日は、さっきまでお母さんと一緒にいた居間が涼しかった。けれども、午前中からおでかけ。部屋はたちまち暑くなってきた。暑いものは暑い。犬や人が暑いのなら猫も暑いのだ。何故に「猫は暑さに強いんやねえ」などと勝手なことがいえるんだろう。
 それにしても暑いなあ…。さあ、また挑戦してみよう…。 

 暑い。とにかく暑い。
 それと湿気の酷いこと。まるで蒸し風呂の中を歩いているみたいだ。今日は社会保険事務所へ年金の加入記録について確かめに行く。娘はネットで確かめれば、というけれど、申し込んでも一週間ほど待たされるわけだし、それならば直接、窓口で確かめた方がいいようにおもえたのだ。転職をしていない人でも加入記録が消えている人もいるというし、名前の読みが何通りかできる人も「別人」になっているというから、やはり気になって仕方がない。
 それにしても、こんな暑さの中をこんなことで出向いていくなんて情けない、とおもいながらバス停に向かって歩いていた。
「情けない」といえば、今朝も娘に叱られた。娘が学校から帰宅すると居間のクーラーがかけっぱなしになっていたのだという。猫のタエちゃんがひとり、お腹を出し、のびをして寝ころんでいたというのだ。
 毎日、私が仕事を終え夕食の買い物をしているあいだに娘が帰宅しているのだが、
「帰ってきて、部屋が涼しいのはありがたいけれど、ちょっと電気の無駄遣いじゃない」という。
 普段私が、携帯の料金のことでうるさくいうので、ここぞとばかりに言いつのるのだ。
「それ、ほんまに?」といいたいところだけれど、そんな嘘をいう娘ではないので、わたしはただ首をひねるばかり。

 しかし、消し忘れたとは本当におもえないのだ。今日だって、きっちり消してきたし。
 と、そこで不安がじわりと心にひろがりはじめた。確かに消したはずだけれど、もしついたままだとしたら…。 本当にボケはじめたのかもしれない。それに第一、電気代が馬鹿にならない。娘にもまた責められるし… 私は家に引き返した。

 玄関の施錠は大丈夫。そろりと玄関をあける。しかしなんだか心なしか涼しいような気がする。室外の音もするような…。いや、あれはきっとお隣さんのだ。
 廊下から居間の前に立って、妙な音が聞こえた。
…こうつと こうつと    こうつと…
  音?声?
  全身が緊張した。…声だとしたら…泥棒!…。それにしてはとても小さい声だ。
…ラジオ?いや消したはず…
 扉をそっと開けた。六歳になる猫のタエちゃんの白いまあるい背中が見えた。お座りをしている。出かける時は、すやすやと寝ていたのだけれども…。
 タエちゃんの右の前足が何かを懸命に押している。押すたびに「こうつと こうつと」とという声が聞こえてきた。
 息をのんだ。
 タエちゃんがしゃべってる。そして一心不乱に何かを押している。一歩踏み込んでもこちらに気がつかない。
「こうつと こうつと こうつと」
 タエちゃんが押しているのは、なんとクーラーのリモコンのようだ。喉の奧の「ああ」という声を押し殺して、もう一歩近づく。
 ぴっ
 私とタエちゃんが同時にクーラーを見上げた。グリーンのランプが点灯し、やがてさぁーっと涼しい風が流れ出した。
 タエちゃんがころんと体を畳に投げ出した。声をかけようとしたら、大きく体を伸ばして腕を上げてこちらを振り返った。
 まるで「ようっ」といったような…いわないような。
                                                      
                              (了)


老眼鏡


 我が家は南北に延びる路地の東側で南端から二軒目になる。
この路地は東西それぞれ七軒ずつの家が並んでいる。つまり14軒の家がある。そのうち三軒には誰も住んでいない。ついこないだまでは二軒だったのだけれど、先月、北端西側の独り住まいのお爺さんが亡くなった。
 南端西側もお婆さんが独りで住んでいる。北から三軒目東側の家には老夫婦が二人だけで住んでいる。
 先月、北端西側のお爺さんが亡くなった時に、町内で集まり、これからの町内からの香典だとか、誰かが亡くなった時の連絡網の確認をした。
 誰がいつ亡くなっても不思議ではないからだろうか、誰もが率直に発言し結局一律負担の額を500円減額した。年金生活者の生活は質素そのものなのだ。
 最後に確認書をいちばん年寄りのお婆さんが老眼鏡をかけて読み上げて、路地の「会議」は終了した。
 
 うちの向かいの家の娘、そしてわたし、西側北から二軒目のお医者さんの奥さん、うちの隣の奥さん、この四人がいちばん若いので、これからは回覧板の起点となったり、町費などの徴収と管理をこの四人の回り持ちでやっていく事になるだろう。
 若いといってもみんな老眼鏡をかけ始めているのだが。
 路地に面したそれぞれの玄関には植栽があって、路地全体はいつも華やいでいる。空き家の軒先にまでゼラニュウムやらマーガレットなどを鉢に植えて並べていて、朝は水遣りにでてくる人たちの声が硬い空気を砕いている。
 植えられているのはそんなに珍しいものや高価なものはない。
 それでも話題になるのは新しい植物。ホームセンターで誰かが購入してきてはみんなで話題になるのだけれど、ラベルの字が小さくて老眼鏡がないと誰も読めない。
 そのたびに笑い声が響く。
「ははは、どうでもええやん」
 

 ある朝、おばさんが黒い幼猫を胸に抱いて、路地に出て打ち水をするみんなになにか聞いている。
 その野良の幼猫が捨てられていたのだという。がりがりに痩せてふらふらしていたので、猫ミルクを与え、そして湯たんぽを置き暖かな寝床をつくってあげたら
「すっかり回復したねん」
 と、おばさんは胸をはっている。
「ところがやねん」
 さて、抱いてみたところ雄か雌かわからない。ご本人もそうだが出てきた誰もが老眼鏡をかけていた。慌てて老眼鏡をとりに帰る人もいた。
 だけどわからない。
 幼猫をいくつもの凸レンズが覗く。
 午前10時になったら獣医さんのとこにいくねんけど、なんでわからへんねやろ。不思議やなあ、といいながらおばさんは家に戻っていった。


 その日の夕方、夕陽の中で植栽の様子を見ている路地の住人たちが、また白い猫を中心に輪を作った。
「それがやな、いきなり、『わからへんなあ』って言わはんねん」
 幼猫の性別は外見からではとてもわかりにくいのだそうだ。もちろんその獣医の一言は冗談で、白い幼猫は雄だという。
「うちの爺さんは『ふぐり』がはっきりせえへんいうてまだ信用しよらん。」
「そう言うのも無理ないわ。素人ではわからへんでこれ」
 凸レンズに反射した夕日が子猫の周りできらきらと波のように揺れた。
「お爺さんが生きてる間には、はっきり分かるようになるて」誰かが言った。
「そらそうやないと」
 笑い声がさざ波のようにひろがった。その猫は「のぞみ」という名で路地の一員になっている。        
                        (了)

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