光函原画2b

光函

マリオネットの朝


二階の窓から青いツナギが浮いたまま
明けてくる空を待っている。
一階の窓から「フランス語会話」
影の声が結露している。
濡れた黒瓦を猫が傾きながら越えていく
彼の方の跡をなぞって。
たぶん、わたしもそのように歩いている
光駆動式のマリオネットだ。
ゆっくりと世界に血がかよいだす。
命をつくる光の糸が
音もなく降りてきた。



Carco


店の前面のほとんどを色褪せた黒い木枠に囲まれた大きな硝子窓が占めていた。店内の擦りきれたオイルステンの板張りの床が店の柔らかな雰囲気をつくっていた。
 広い坂道の左側にあった。向かい側は巨大なホテルで、歩道にはプラタナスの並木が続いていた。店からはその広い葉と路面電車と、空と、ホテル前面の鬱蒼とした緑がよく見えた。
 早朝、坂道を下から見ると、輝くレールがそのまま朝の空に続いているようだった。
 去年知り合った人と今日、そこで会うかもしれない。インターネットのジャズファンの集まるサイトの掲示板だけでの知り合いである。
 コルトレーン、マイルス、ハンコック、…好きなプレイヤーも好きな作品も同じで、いつも私のすぐ後ろに書きこみがあった。
 メールで声をかけたのは私のほうだった。それはそのような趣味の一致に親しみを感じたという以上に、この人のハンドルネームの「Carco」が大きな理由だった。
 それはあの店の名前だったから。
 1972年のまだ冷たい春先。ぼくはほとんど一日、誰とも口をきかないような暮らしをしていた。体を横たえるようにCarcoの窓辺の日溜りにいた。光に溺れていた。そのままでいられたらと思っていた。これからどうしようか、その問いを投げ捨てたままの19歳で。
 あの時、一緒にただ光を浴び、ジャズを聴いていた女性は一人しかいなかった。交わす言葉も少ないまま逢いつづけた人。そのまま別れた人。

『Carcoの前を、毎朝6時に散歩しています』
 なんのあてもなくメールを送った。 なんの返事もなく何日かが過ぎた。そして、その日。
 ぼくは歩いていた。三条通りを東へ。右手にホテルが見えてきた。昔のままなのは並木だけだ。路面電車も今は無い。かつてはCarcoという名の喫茶店、その後違う名前の喫茶店になった「空き地」。まるでぼくの過去はすべて幻だとでもいうように、四角に切られた空き地の前に到着した。30年前と同じく春の朝は寒く、光のあたった髪だけが暖かだった。
 背中に声を聴いた。
 カモシカのような脚の若い女性が立っていた。小さく笑ってお辞儀をすると、彼女は光のほうへ顔を向けた。その先の坂の上に黒いシルエットがいた。しずかな立ち姿だった。
 女性が手を握ってぼくを連れて行く。
 何か声にならない声が絞りでたような気がした。情けないほど小さく、掠れた何かが。
 
 
 シルエットのほうから朝風が吹いてくる。何かが軋みながら立ちあがった。
 『Carco』の匂いがいっぺんに、脳裏に溢れた。
  ぼくは光の中へ、泳ぐように歩き出していた。
                                   (了)

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