光函原画2b

光函

光の織物


色も匂いも重さも ない。
だけれどそこに 織物があった
揺れる緑の葉 ふるえる深紅の花
醒めた青を流れる白い雲
そんな柄の
道路に円い光のつづれ織りが揺れていた
その水の生地に浮いた花の骸を
風が静かに削っていた
わたしは見たものの中を生きていく
あるいは 見ようとしたものの中を
のぞきこむ
わたしも また
光の織物


スミス、空なの

二重の簾の向こうから鳥の声が聞こえた。雨が上がったようだ。光は相変わらず薄く、椿の葉を打つ水滴の音が微かに聞こえてはいたけれど。 音の少ないことが妙子には久しぶりのことだった。妙子の染めの工房は大きな河の横にあって、いつも風の音がしていた。止むことのない草のざわめきにもすっかり慣れてしまっていたから、ことさら新鮮に思えたのだ。
 十二畳の間に妙子はひとり座っていた。ここは古いお寺の応接のための離れとして造られ、今では部屋だけが賃貸になっていた。部屋はぐるりを木の縁側に囲まれ、四角い部屋の二つの面はガラス戸になっていた。 その外は一面、苔で覆われ同じような感覚で椿ともみじが植えてあった。 三月の終わり。空気はまだまだ春にはなっていなかった。 晶子がここを自らの日本画のアトリエとして借りている。今日は彼女から招かれたのだ。

 晶子とは高校の美術科の同級生で、彼女はそこから日本画を学ぶことを続け、妙子は家業の織物への興味から染色家への道を選んだ。お互い卒業してからもよく会い、作品も見つづけてきている。妙子が河の横に生葉染めの工房をつくった時、晶子は自分のことのように喜んでくれたと、妙子は感じていた。
 晶子は六畳のアパートとこの「アトリエ」をまるで勤め人のように、毎日きちんと通っている。たいてい洗いざらしのジーンズをはいていて、その破れたところに妙子からもらった西陣織の帯のはぎれを、きれいにあてている。そして白の大きなシャツにまっ黒のゴムの靴といういでたち。冬はその上にダウンジャケットを着るぐらいだった。

  部屋には水まわりなど、生活に関するものがなにもついていない。晶子は今、渡り廊下の向こう、住職の住まいに繋がっている所にある小さな流しに水を汲みにいっている。ニカワを溶く水だ。
 そのあいだ、妙子は部屋の中をじっと見ていた。畳一面に画布が広げられ、右手には顔料絵の具の壜がきちんと並べて置かれている。そして絵の具を溶く小さな皿と丸い電熱ヒーター。大きなガラスの壜には何本もの使いこまれた筆がきれいに洗い上げられて入っている。何冊もの画帳、スケッチした紙を挟んだもの、その上にこそっと文庫本が置いてある。この寒い部屋で晶子は画面を睨みつけて描いているのだ、と妙子は思った。

  空気がぴんと音を立てたように聞こえた。
 妙子の目の前には大きな黒猫の絵が完成直前の状態でおかれていた。背景にはウグイス色。画面のほとんどは黒猫で、今まさに跳ぼうとするかのように膝を曲げていて、顔が空を向いている。 「はい、はい、はい」そう言いながら晶子が小鍋に水をいれて帰ってきた。
「珈琲のむ」「うん」
「ごめんね、呼び出しちゃって」
 晶子は小鍋の水を大事そうにニカワのそばの電熱ヒーターの上に乗せると、いつも持ち歩いている燻した竹でできた巨大なトート風の籠をかたわらに寄せた。
「あ、そこに全部はいってるんだ」
「そうだよ。ほとんど毎日遠足やねん」
 妙子が覗くとそこには画帳、ペンケース、きちんとたたまれたおびただしいタオル、ランチボックス、保温ポット、折りたたみの傘、などが見えた。そこからポットとステンレスのマグを二つ取り出す。
「遠足というよりもキャンプやな」
 バイト先で安く珈琲豆を売ってもらい、それを朝のうちにネルで大量に淹れて持ってくるのだという。部屋に湯気が立ち、やっと空気が鎮まったと妙子は思った。
「持ってきたよ」
 今度は妙子が自分のバックから、紙の包みを取り出した。
「去年のやねん。な、年に一度しかとれへんから」
 紙の包みから現れたのは、「水色」の生糸の束だった。妙子が去年の夏、生葉染めでつくりだした色だ。晶子が身を乗り出してじっと見ている。
「妙ちゃん、これやね。この色なんやね。ずっと探してるいうてたん」
「『そらいろ』。」
「色見本にはない色やね。浅葱、水色、甕覗き…うん、うん、うん」
 妙子から生糸を受け取り晶子はずっと、それを眺めつづけた。
「どおやろ」
「うん…」
 晶子の目の色が変わっていた。
「きれいや」
 数分後にやっと晶子の口から言葉が漏れた。
「妙ちゃんに来てもろてよかったわ。これ貸してくれる。これを見ながら色つくるわ」
 晶子の目に強い光が宿っていた。  

 六月。妙子は京都の四条を歩いていた。暑さと騒音を振り払いながらある画廊を目指していた。晶子から黒猫の絵をグループ展に出したから、という連絡があったのだ。晶子と同じ日本画を描く若手の何人かとの合同展である。

  画廊に入って、すぐに猫の絵がわかった。
 黒猫。
 彼女とずっといっしょに暮らしてきた黒猫だ。迷い子猫からずっと晶子と暮らしてきた。名前は「スミス」という。
 
「さいしょ『炭』ってつけたんよ。真っ黒やしね。そやけど『すみ』って、なんか婆さんみたいやんか。それに雄やし」
 それで「スミス」とつけたんだと晶子は言った。にもかかわらず妙子や他の友人も「おすみさん」とか「すみ」と呼んでいた。
 絵の下にちいさなタイトルがはってあった。
  『スミス、空なの?』
 お寺の離れで見た時、まだ真っ白でなにもかかれていなかった、猫のスミスの眼には、妙子が染めたのと同じ「空色」が描かれていた。

 夏の終わりある朝、晶子は窓を全開にして部屋に風を入れていた。朝の光はことさらまぶしく。空の青さがとても高く見えた。ふと視線を落とすとそこには黒猫のスミスがいた。
「どうしたのスミス」
 スミスはどこかへ跳ぼうとしたまま姿勢を固めている。どうしたのどうしたの、と声をかけても動かない。晶子はスミスの顔を凝視した。スミスの上向いた目は透けて見えて、そこに空が写っていた。  まるで宝石のような美しい眼に晶子は一瞬、言葉を失った。
「…スミス、空なの?」
「みゃあ」
 スミスは思いっきりジャンプして、晶子の上に飛び乗ってきた。
「みゃあみゃあ」
「ああきれいな空やね」
晶子はスミスを抱きしめていた。
 

「どう」
 少し遠くから晶子の声がした。妙子は晶子の「空色」をじっと見ていた。                     (了)              
                

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