光函原画2b

光函

黄緑のシャツ

 少年だった。
 十字路の角から自転車に乗って飛び出てきた。全体に「洗い晒した」雰囲気のする少年。自転車の紺色も艶が消え、髪も脂気がなく、細い体に長くて白い腕だった。細い脚を洗いざらしのジーンズでつつみ、うつむいたまま切るように斜めに前をよぎった。シャツが黄緑で、微かに光っていた。 あまりに素早いので、その黄緑の残像が目からなかなか消えなかった。
 とてもその口から言葉が漏れるとは想像できない雰囲気も残った。たぶんおそろしく無口なんだろう。ひょっとしたら一日中誰とも口をきかないような人間かもしれない。

 十字路の角は古い珈琲の焙煎屋だった。鈴懸けの街路樹のある大きく広い歩道と、バス停の後にうずくまっているような店だった。前面の戸はいつも全開で、木造の店の内部そのものが、燻されて黒に近いこげ茶に染まっているのが見えた。煎った豆を入れる10種類ほどの古い硝子ケースと、光沢の完全に抜けた焙煎の機械と、粉塵がこびりついた豆を挽く機械がそのなかにあった。機械のすべてが壊れて放置され、もう動かないように見えるけれど、全部ちゃんと動く。硝子ケースの向こうに座っていて、いつも頭だけが見えるのが2代目の裕次郎だ。一代目の親父が同じ名前のスターの熱狂的なファンで、息子もかくあれ、と名づけたのだ。ぼくらの年代には結構多い名前だ。
 いつも髪だけが見えているのだが、客から声がかかると、とても嬉しそうに立ちあがる。
「なにしましょう」
   店内には豆の値段と種類が小学生のような字で画用紙に書かれ、ところかまわずべたべたと貼ってある。しかもそれが全部煤けている。こんな店内を見たら、裕次郎の焙煎した珈琲、本人が名づけた「マーベラスブレンド」がどれほどおいしいか知らないものなら、まずここで買い物はしないだろう。事実、この店ではほとんどが常連客か、その紹介の客ばかりだった。
 「お」 
 それが挨拶だった。裕次郎とは小学校からの同級生だ。高校までは同じ学校へ行っていた。もう同じ学区に住み続けている者は、かなり少なくなった。裕次郎のように家が店をやっていても後を継がずに会社員になるものも多かった。むしろぼくのようなサラリーマンで、転勤のない人間のほうが珍しいのかもしれない。

 「また、頼むわ」裕次郎がそういって画用紙を渡してきた。 「新入何 コロンレ゛ノ」とある。これは「新入荷 コロンビア」と読む。
 裕次郎は高校2年の夏に若いチンピラと大立ち回りをした。夏休みのある日、午前1時ごろ三条大橋を彼女と歩いていた。これから帰るところだったそうだ。そこへクルマが一台。最初は男二人がひやかしてきたらしい。ところが相手にしないでいると車を止めて中から4人が降りてきた。まずいと思って逃げようとしたとき、さらに2台がすでに止まっていた。相手は10人ぐらいだったという。裕次郎はその時、わかった。狙いは彼女である晶子なのだ。さらう気なのだ。
 必死で逃げようとし、無理となったら闘った。多勢に無勢だが、あまりの騒ぎに警察が来た。だから助かった。通報してから到着まで持ちこたえた、というのが正しいのかもしれない。
 裕次郎の傷は深く、バットで殴られた頭蓋骨は基底骨折。長い入院だった。彼女を守ったのは良いけれど、そんな時間までひっぱりまわして、という両親の抗議を受け入れて、晶子とは付き合わない事になってしまった。   それからだ。裕次郎の書く字にところどころ横棒が抜けるようになった。本人は正しい字を書いているという認識で、眼には「そうみえている」と言うのだが、実際は線が抜けている。たいてい常連客の誰かがチェックしているのだが、いったい帳簿などは大丈夫なのだろうかと心配になる。裕次郎の両親は健在だが、店に出てはこなかった。
「トオル、晶子の絵、見にいかへんか」
 ある日突然、裕次郎が言った。 意外な言葉だった。高校を出てもう5年が過ぎていて、晶子と裕次郎は夏の事件以来、別れたものだと思っていたから。                                 「がんばってるらしいで。いったりいな」

  ぼくがなにか虚を突かれたような顔をしていたのだろう、裕次郎がにっこり笑った。わたしは「マーベラスブレンド」400グラムの入った紙袋を持ちながら曖昧にうなづくだけだった。
  翌日、裕次郎に教えてもらった、町屋を改造した画廊へ出かけた。     猫の絵の前に晶子がいた。
 それは背中だったけれど、すぐに晶子だと「わかった」。
   わかった。
 痩せぎすの、だけど背筋のぴんとした立ち姿。違うのはトレードマークのように着ていた、大きなサイズの白いシャツではなく、微かに光る黄緑のシャツだった。ポニーテールにした髪ではなく、少年のように短くした髪だった。十字路の裕次郎の店から斜めに切るように自転車で駆け抜けた「少年」が輝く眼でこちらを振り返った。
                               (了)


缶詰

 久しぶりの友人たちとの食事会もようやく終わり、帰路を急ぐ電車の窓には、礫のように打ちつけられた雨の痕跡が残っていた。私はすっかり暗くなった街を見ながらその日のちいさな話を反芻していた。友人たちの子供たちもほとんどが大学生か社会人になり、みんなやっと自由に出歩ける時間ができたのだ。
 遠近両用の眼鏡をかけてアドレスやら電話番号を入力していく。みんなケータイを使い出して日が浅いから、仕事で使うことを余儀なくされている私や理恵子には質問の嵐だった。
 高校の同級生たち。みんな年をとり、めいめいの夫はそろそろ還暦に手が届こうとしている。
 いろんなことが報告された。加代子は癌で術後二年経過。みんなで励ました。由紀子のところは実家の呉服問屋が倒産したとのこと。嫁いでいないお姉さんを心配していた。みんなの口数が減った。この街にずっと残っているのは理恵子と私だけれど、お互い年賀状のやり取りぐらいしかしていなかった。理恵子は家具のトータルコーディネートの仕事をまだ頑張ると言った。みんなが、わぁ凄い、と。
 私にもいろいろと報告すべきことがないわけではないのだけれど、子供もいないし、22歳で結婚してから今の今まで有頂天になるような出来事もない変わりに、崩れ落ちてしまうほどの不幸にも見舞われたことはなかった。みんなの話を聴いていると、下手なフィクションなぞ全て吹っ飛ぶほどなのに、私にはそういう出来事はなかった。みんな、それが一番よ、と言う。その顔に向かって、そうだと思うの、と真顔で答えることができた。

 私と夫と…二人で生きてきた。
 だけど今は心配だ。家で夫一人が待っているから。加代子が新幹線の予約を3時間も遅らすものだから、みんな調子に乗っちゃって、変える予定がとんでもなく遅くなってしまった。ケータイで家に電話をしても留守だった。たぶん散歩にいっているのだと思うけれど。
 夫は今日から自宅待機である。私が同窓の友人と会う予定はだいぶ前に決まっていて、今日はずっと家にいようかとも思ったけれど、夫は久しぶりなんだから行ったほうがいいと熱心に勧めてくれた。真面目で仕事一筋の人なのだ。酒もタバコもギャンブルもやらない。趣味らしい趣味はなくて、しいていえば散歩ぐらいである。そんな人が仕事場にも行けず家にいるというのは、どういう気持ちなのだろう。今晩は色々と話をしなければ。それよりなにより、あの人は家事なんてやったことがない。夕飯だって外で食べるという気が全然ない人だから、何かつくらなきゃ。
 私は段々とせっつかれるような気持ちになって外を見ていた。水たまりに夕日が映えてきらきらと光っている。途中で何か買って帰ろうか、それともいったん家に帰って、これからどこかに食べに出ようと言ってみようか。頭の中で考えが錯綜した。
 最後は駆け足になっていたかもしれない。すっかり暗くなった路地の裸電球の光の下めがけて私は飛び込んでいった。
 まるで函のような路地の中の一つの戸を開ける。今までこの時間にはいなかった夫がそこにいるはずだった。家はしんとしていた。いや、何か音がする。
「ただいま」
 すぐに家の中へ駆けこむ。
「ごめんなさい遅くなっちゃって。お腹すいたでしょ。すぐになにかしますから」
  コートを脱ぎ捨て、鞄を放りだし、洗面所へ走って大急ぎで普段着に着替えて、…そこでまだ夫の声も姿も確認していないことに気がついた。
「あなたぁ」
  台所へ走った。背中が見えた。
「お帰り。まあまあそんなに急がなくてもええやんか。今、お茶を入れるから、まぁ、ゆっくりなさい」
 お茶!!!夫は台所で湯を沸かし、茶を入れる用意をしていた。言葉を失った。そんなこと結婚以来一度もしたことのない人が、器用にお茶をいれてくれている。
「はい」
 ことん、と湯のみが前に置かれ、わたしはわけのわからないままお茶をすすった。寒い中を駆けて来たので凍えていた手が、じんわりと温くなった。お茶はとてもおいしかった。
 茫然とする息が整っていくのを見計らったかのように、夫が言葉を接いだ。
「もう、いままでみたいに急いたり無理したりしなくてややんやから。 な、今日はあれを食べとこ」
 夫が指で示した居間のテーブルの上には缶詰が二個だけ置いてあった。
 何か言おうとしたけれど言葉が壊れて、感情が溢れた。夫は静かな顔をしている。白いシャツの背中はいつもの様にぴんとまっすぐだ。
 夫が私の顔を覗きこんだ。わたしはどんな顔をしていたのだろう。夫が小さく笑った。そんな顔を初めて見た。
「あかん?」 「ううん、…ええよ…ありがとう」
 自宅待機は続くけれど私は夫がこのまま仕事を辞めてもかまわないと思うようになっていた。こんどの食事会でみんなに「缶詰」のことを言ってみようと思う。みんなどういうかな。気味悪がるかな。でもわたしはその時感じた感情をみんなに言おう。きっとみんなものんびり言葉を返してくれるはずだから。
                                                                 (了)
 
  

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