【21日目】ジャズ大名

 こんばんは。概念です。究極のものとして私を感じてください。
 さて、ジャズ大名を観ました。

ストーリー
江戸時代末期、アメリカから駿河の国の小藩に3人の黒人が漂着。藩主の海郷亮勝は大の音楽好きで、彼らに一目会いたいと願うが、家老の石出九郎左衛門は許してくれない。そんななか、幕府から黒人の処分を任せられた亮勝は、城の地下座敷牢に3人を入れるが…。

 このあとのストーリーとしては、殿と黒人がセッションを開始、どんな戦があってもガン無視で城を巻き込んでセッションし続けるというもの。それだけの映画です。筒井康隆は大好きだけど、この原作は未読です。監督は「ダイナマイトどんどん」を撮った岡本喜八。

 このあっけらかんとしたSFコメディ。ここから垣間見えるのは、赤塚不二夫、山下洋輔、タモリ(本作でも山下はおもちゃのピアノ弾き、タモリはチャルメラ吹きとして出演)、そして筒井康隆らの日本人の陰湿な性格を遠ざけた人たちの生き様でしょう。

 いわゆる「根暗」、「根明」はタモリの造語であるという説をご存知の方も多いでしょう。1982年には流行語大賞にもなっている。まあ、この流行語大賞が本当に流行していたのか、という点は昨今の賞を見ると怪しいですが、ちょっとしたアクセントとして書いておきましょう。

 この「ネクラ」。これはタモリが純文学批判やニューミュージック批判の際に用いた言説です。どういう批判だったかというと、「暗い感じの作品にはしてるけど、結局、ポーズだけじゃん」というもの。もう少しだけ踏み込むと「社会的な欠点を深刻そうに問題視するけど、告発はしない。それって嘘じゃん。だったら最初から軽薄な人間性のまま、明るくやれば良いじゃん。それが新しい音楽なんじゃないの? 君たちがやってるのって演歌や歌謡曲を今っぽくしただけだよね?」という論旨です。卑近な例としては、「自分は頭が良いし、ひねくれているんですよ」みたいな顔で24時間テレビを「偽善だ!」と嬉々として指摘する人みたいな感じですね。そんな擦り倒されてることをいちいち言わなくていいし、じゃあ善をなしてくれって周りの人はみんな思ってるぞ。お前。

 それはさておき、この映画にはそうした嘘の暗さが何ひとつない。「黒人が漂着した? OK! 政府が倒幕されようとしてる? OK! 元号が江戸から明治に代わる? OK!」こういう精神性が、破壊と前衛とメタを絶えずプレーヤーに要求するジャズ・ミュージックに仮託され、底抜けに明るいセッション、いや、音楽的乱行パーティに発展していく。フィクションとして底抜けの明るさが、現実の陰湿さを照射する。そこに本映画の哲学と批評性があると思うんですよね。

 いわゆる「アホ」がすべてをぶち壊すことってあると思うんです。この映画もそうだし、クレヨンしんちゃんの構造もそうですよね。古くはギリシャの犬儒派、ディオゲネスもそうでしょう。有名どころで恐縮ですが、「プラトンの雄鶏」はまさにアホさの極地です。

プラトンが「人間とは二本足で歩く動物である」と定義すると、ディオゲネスは「ではニワトリも人間か」と言い返した。それを受けてプラトンが「人間とは二本足で歩く毛のない動物である」と再定義すると、ディオゲネスは羽根をむしり取った雄鶏を携えてきて、「これがプラトンのいうところの人間だ」と言った。その後、プラトンは先の定義にさらに「平たい爪をした」という語句を付け加える羽目になった。これが「プラトンの雄鶏」の名で知られる故事である。

  これらは要は「アホ」に愚を暴く賢者=トリックスターなわけですよね。

 ただ、本映画は作中の物語においてトリックスターなのではなく、「アホ」な映画だからこそ現実の「愚」を暴く、メタフィクション的な構造をとっているということが白眉の作品なんです。

 突き抜けてアホな作品ということを主張したいあまり、なぜかメタフィクション論にまで発展するという謎な映画評になりましたが、今日はここらで失礼。印象に残ったセリフもないです。そんな安い人生訓などこのメタフィジカルな映画には不要なのだから。では。

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