一瞬の抽象性

一瞬の抽象性/情報圧縮/可読性

 犬の散歩には江戸川に行く。家の辺りは住宅地で、細い道が碁盤の目状に並ぶ。川まではほぼ一直線だが、産業道路とぶつかるところで、左に少し曲がる。初めの道路の突き当りはガソリンスタンド、次の道はの先は江戸川である。犬に合わせてゆっくり歩きながら、道の先にあるスタンドの光や、江戸川の土手を眺めるとき、抽象性を感じる一瞬がある。

 一つ目の突き当り、ガソリンスタンドは、住宅地から見ると不思議な存在感がある。それは、この住宅地と、産業道路が出会うところでもある。ロードサイドの、大きな駐車場を有したコンビニやチェーン店やガソリンスタンドは、その道を走るドライバーからは平凡な光景でも、住宅越しに見ると違う見え方をする。

 例えば、その明るさである。強い照明が、ガソリンスタンドの大きな壁と天井に跳ね返って、白く広がっている。古い住宅から漏れるオレンジ色の光や、街灯の青白い光、マンションの窓に灯る光、自転車のライトなど、様々な光がこの道には散りばめられている。それらの光は、アスファルトや庭木、家々の壁といった、様々な表面にぶつかって拡散し、私たちの目に届く。ガソリンスタンドは、この雑然とした光景の奥に、均質に白く光る平面を讃えて、私達を待ち受ける。

 空間とは、情報の集合である。空間の抽象性とは、その情報の圧縮をいう。ところが、実際のところ、人間の知覚や、世界のエントロピーの事情によって、空間の情報を圧縮するのは難しい。人は色んな方向から物を見たがるし、単に白い壁を作ったところで、それはすぐさま汚れる。

 細い道の奥に、江戸川の土手を見るのも劇的だ。夕方には、ジョギング中の若者も散歩中のお爺さんも、西日に照らされて、皆影絵のように黒いシルエットになっている。江戸川の土手は7mの高さがある。ちょうど周りにあるアパートの三階の床と同じ高さにある。そういえばガソリンスタンドの天井の高さもそれくらいだ。

 ここで、可読性について話さなければいけない。私がいう可読性とは、私がいる場所について新しい説明をしてくれるものだ。というのも、近代以降の開発は世界中で場所のアイデンティティ(場所性)を奪った。どの場所も同じようになって、場所どうしの関係が無くなったのだ。結果として、自分がなぜここにいるのか、説明するものはない。パチンコ屋の隣にアイフルが出来たり、ある種の関係性はもちろんある。けれども、こうした関係性は、いつ見ても同じ読み取りを促す。ここで、例えばその隣に小学校があって、小学校の教室からの眼差しを考えられたら、少し読み取りが広がる。可読性というのは、読み取りが固定されずに揺らいでいる状態を言う。

 すべての空間は社会活動や経済活動と結びついている。ハーヴェイがパリを描いたように、社会的要求で構成されるものである。俯瞰的なプランニングも、草の根から欲望の発露として生まれる建築も、社会的な要求として括れてしまう(パリ改造を計画したオスマンが踊り子に貢いでいたように。)具体的な目的を負った空間に抽象性を見出すのは難しい、なぜならば、それはベンチューリの言うアヒルに他ならないからである。

 もっと初歩的なところから考え直さなければいけない。そういえば、3次元と2次元のあいだで情報を圧縮したり解凍したり人が建築家と呼ばれていた。彼らは図面を書き、工事現場でその図面と現実を見比べる。けれども、BIMソフトなどが普及して、建築は、コンピュータ上で簡単に3dとして立ち上げられるようになった。図面は、コンピューターが作ってくれる。

 私は新しい抽象性を考える。それは、ある視点からのある一瞬の情報圧縮と可読性を考えることから、始まるかもしれない。