見出し画像

ばあちゃんがしんだ日の備忘録

全世界に鳥山明先生が亡くなったニュースが轟いたと思ったら、ばあちゃん(ずっとそう呼んでた)が亡くなった。
92歳だった。
まあ、口が悪いで有名でしたが、どこか憎めないそんなばあちゃんでした。

地元を一度離れ、しばらくして戻ってくると、相変わらず口はうるさいけど、以前より歩けなくなって、自転車も漕げない、めっきり痩せたばあちゃんになってた。それからお店を始めて、しばらくひ孫とも一緒に過ごせたことが少しでも報いだったかな。

僕は小さい頃から両親が共働きだったので、ばあちゃんっ子でした。

どこかに連れていってくれるわけではないけど、畑から夕飯のナゾの歌を歌いながら一緒に砂を運んで家の庭に砂場を作ってくれたり、
軽トラの荷台に乗って農協に野菜を出荷したり、
(おかげで段ボール作るのクソ早い)

家の近くに畑や田んぼがあって
春は田植えを手伝ったり、
用水路で魚やザリガニを捕まえたり、
夏は山に行ってカブトムシを探したり、
枝豆をもいだり、
秋は干し柿をつくるのを手伝ったり、
冬は大豆を選別したり、
胡桃を炒ってほじくったり、
その胡桃でほうれん草の和物をつくったり、

そんなこんなで育ったから遊びは与えられるものじゃなくて、自分でつくるものだったし、仕事が生活の一部でした。

あの頃の野山を駆け回って、自分で遊びを考えて、うまくいかなくて、また繰り返して、目の前の好奇心に純粋だった少年がいまの自分の基礎になっていると思う。

あの頃から比べてたった十数年しかたってないのに、いまはすぐ情報は手に入るし、面白い遊びやゲームがたくさんある。

わからないことがあればすぐ検索すればわかる。
「〇〇 やり方」って検索しただけでわかった気になる、調べればわかるから深く考えることが少なくなったのか。

「答」を早く正解に導き出すことよりも、「問」を作りだすことのほうがこれからの世の中には必要なんじゃないでしょうか?

そもそも物事に正解も不正解もないのに、やってみなきゃわからないのに、「失敗」しないための教え方が多い気がする。
だから壁にぶつかった時の攻略法がわからない。

効率よく、早く正解に辿り着くために、ゲームの攻略本を欲しがる小学生のよう。

ポケモンで言うと攻略本をみて、最短で殿堂入りしてなにが楽しいのか。あーでもない、こーでもないと自分の頭で考えて試行錯誤するから楽しい。そこから好きなことをみつけてやり込んでもいいし、辞めてもいい。

ちょっと脱線したけど、生きていく上で正解なんてないんだと。失敗があるとしたら、やりたいことをやらないことの方が失敗だと思う。

世の中にはやりたいことがあっても戦争や貧困でできない人もいる。
この国、この時代に生まれただけでラッキーなんだろう。

経済的な合理性を追求した結果、美学、品格、人徳のような目には見えないものの価値が置き去りにされてしまって、お金がこれらの倫理観を超えてしまっているように感じてしまう。

お金はあくまで手段のハズなのに、目的になってしまっている。

と、ばあちゃんとの思い出を振り返っていたら、あの頃の少年から忠告を受けた気持ちになりました。

とりあえず、ばあちゃんお疲れ様。
ばあちゃんと過ごした、何もないけど心は豊かだったあの頃の思い出をありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?