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オープニング・アクト

パーティーが始まる前の空気は、ひどく冷え切っている。
外に音が漏れないほど分厚い扉の奥で、隣の建物からのクレームを防ぐ重責を負った、ずっしりとした吸音壁で押さえ込まれているのだ。舞台に立つ人の気持ちは少し浮き足立っているが、熱量を持たない空間に囲まれて、空回りしかできない。
早めにフロアに入ってきた観客も、動いているのは移動で火照った体だけだ。期待に満ちた感情もそれぞれの中で逡巡するだけで、外に出てくる経路が見つかっていない。
人々の周りの空気が、固まっている。

空気を震わせるのは、なんだ。

音だ。

音が、入り始める。


オープニングDJとしての仕事は、主に二つだ。
一つは、次のDJが回しやすい雰囲気にすること。これはゲスト前のアクトなどでも共通することなのでここではあまり言及しない。簡単にいえば、テンションを上げすぎずしかしフロアから人を減らさない程度には下げすぎず、という塩梅をうまく保ちながら次に渡せばよい。
特に重要なのはもう一つの方だ。それは、音がない環境から、それがある方が普通である環境に持っていく、ということである。
クラブでは大音量が鳴っていることが常だ。来るタイミングが最初の方であれ途中であれ、あの特有の重い扉を開けると何かしら音楽が流れている。音が止まるというのはむしろ不安定な状態であり、止めてしまったDJにはなにやら色の濃い酒を飲ませて平穏を図ろうとすることもあるだろう。大音量がある方が普通で、ない方が緊張している。これがクラブやライブハウスの一般的な環境である。
しかし、これは日常の環境だと全く逆になる。普段の生活をしていて大音量を聴くことは、むしろ異常や危険な状態を示唆する。道路を走っている時のクラクション、満員電車で響く怒号、リビングでくつろいでいる時でも聞こえてくる工事の騒音。これらが耳に入ってきた時、私たちの体は硬直し、時にストレスさえ感じる。かつて人類が狩猟採取をしているときの急激な音は、例えば動物の鳴き声や地崩れ、もしくは仲間からの合図である指笛であって、これを踏まえると唐突に大きな音が聞こえてきた時に瞬間的に緊張状態になるのは不思議ではない。つまり私たちは普通であれば、大音量がないほうが安定している。
このように、音に関して対極的な環境が同時に存在している。というとムツカシク感じるが、およその場合それはクラブの内と外で空間的に分けられているに過ぎない。音に包まれたければクラブに入り、静寂が欲しければクラブから出る。環境は環境として場所に特徴づいて存在しており、条件さえ満たせば私たちは自由にそれらの間を移動することができる。
ただしごく稀に、空間は変えることないまま、音に対する環境を反転させないといけないシチュエーションがある。その一つこそ、オープニング・アクトだ。

言い換えれば、音が少ない日常的な環境と、音が鳴り続けている非日常的な環境との橋渡し役を、オープンDJは担っている。
ここで大事なのは、大きな隔たりがある二つの環境をつなぐ時、それを性急にしてはいけないことである。ダブステップやドラムンベースに見られるような急激なドロップ、つまりビルドアップから大幅に音量が変化することは、それこそパーティーが温まってきてからであれば可能ではある。しかし、まだ空気が音がある状態に慣れていないと、大きな音はただ観客をびっくりさせてしまうだけで余り有効的ではない。橋渡しを不自然さを出すことなく達成するためには技量を要する。
例えば夏と冬の間の季節は、緩やかに天候が変わるようで実際はそうでもない。夏に戻ったかのような暑い日の後に、一気に冷え込んで冬の訪れをぶつけてくる。これは夏と冬の気団の間が波打っていることが原因ということはさておき、数日おきに乱高下する天気に体調を狂わされた経験がある人も多いだろう。
環境を大きく変化させるときはその間をスムースに繋がないと、そこにいる人のリズムがおかしくなる。急激に変わった環境に適応しようとして不要な労力を使ってしまう。さらにいえば、人や生き物はまだ適応しようと向こうから働きかけてくれるが、無生物である空気はそうにもいかない。比較的小さい音から順々に振動に慣れさせていき、ある程度場の空気と観客が揺らめきだしてきたタイミングで、少し段差をつけて音量のつまみを上げて、リズム感を強くする。ここに行き着くまで2~3曲、時間にしておよそ15分程度である。

一度クラブの環境、大音量が流れ続けていることが普通である環境に持ってくることができれば、あとはゆっくりとテンションを上げていき、たまに落としたりひねったりしながら、二番手以降の演者がアクトしやすい雰囲気に調整していくのみだ。
まるで車のエンジンが始動するように、体と空気が震えだす。
閉じ込められて一体化した熱量が、誰も知らない夜の何処かを突き抜ける。

さあ、次のジャンクションはどちらのルートを進もうか。

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