文化人類学研究の失敗例


文化人類学の講義で、しばしば、「著名な研究者の業績」が紹介されることはある。
 
しかし、「やってはいけない失敗をした業績」については、ほとんど紹介されない。
 
本当は、「失敗例」を知ることはとても大事である。なぜなら、著名な研究者の素晴らしい業績を知っても、学生がその域に一気に達することはなく、もっと地味で、小さな事例研究から始めるのが普通であり、それについて考察し、記述する過程で大失敗をしていることがあるからだ。そのまま博士課程を終了し、そのまま研究者になってしまう場合もあり、そのまま、変なことを言っている人がいるのは事実である。
 
学生時代にそれを指摘してもらえればラッキーだが、指導教授は手抜きをして、あるいは能力不足で指摘しないかもしれない。同じ研究室の仲間も「角が立つ」のが嫌で、面倒なので何も言わないかもしれない。学会でもしばしば「そのまま流れて」いく。
 
なので、皆、信頼できる別の研究者に「これでおかしくないですか。矛盾はありませんか」と聞いた方がいい。それが必ずしも指導教授である必要はない。信頼できる人、能力のある人、率直な意見を(攻撃性なく)言ってくれる人を探し、もちろん、自分も他の研究者に対してそうあるべきである。
 
それから、助言を受けたら、自分の栄養にできるものは吸収するつもりで話を聞かなければならない。助言に速攻で反論する人がいるが、それではもう誰も何も言わなくなる。
 
失敗例を3つあげよう。
 
(1) 原因と結果に何も関係がない。
 
 「嫌なことがあると、うさばらしに首狩に行く」
 
 おかしなことである。「ダンスする」でも「叫ぶ」でも何でもいいはずだ。現地の人が「嫌なことがあると首狩りに行くのだ」と言っている場合、「」をつけて、そのまま記述するならいいが、そのように研究者が「説明」をするのはおかしい。
 
(2) 土地や時代がバラバラなものを並べる。
 
 ある儀礼について知りたいとする。
 その儀礼が、あちらこちらにあるとする。
 その「あちらこちらの」、17世紀、18世紀、20世紀の事例を並べて、「共通項を抽出」するのは、やってはいけないことである。どんな儀礼や習慣にも、地域性と時代性があるので、そのコンテクストに位置付けて記述しなければならない。
 
(3) 「◯◯人」の数人や一組織がやっている活動を、「〇〇人の社会運動」「〇〇人の組織」と表現する。
 
  一部の人が「〇〇人」を代表するかのように振る舞っても、あくまでもそれは一部の人である。一部の人がやっている、ということを必ず書く必要がある。
 
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