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2019/12/24 話をする/見えてくる

東京に来ていることを知ったKさんが食事に誘ってくれた。店はKさんが探しておいてくれたイタリアン。おいしいものを食べて(ラザニアもあった)、楽しい時間を過ごした。

SNSでつながっていると、お互いの日々のことはうっすら見えているから、久々に会ったり話したりしても、さほど時間があいていたようには感じない。SNSを利用するようになって15年以上経つのに、いまだにこのことに軽く驚いてしまう。でも、SNSでの緩やかなつながりやコミュニティのおかげでわたしは随分と生きやすくなっていると思うから、これは嬉しい驚きでもある。年齢も仕事も住んでいる場所も違うKさんとも、SNSがなければ、知り合うこともなかったはずだ。

お酒を飲み、おいしいものを食べながら話す楽しい話のほとんどは、その場をたゆたって、そのまま消える。後になってまで残るものは、決して多くはない。(これはあまり記憶力のよくないわたしだけかも知れないけれど。)

だからこそ、後にも残る言葉の力は強い。

わたしはずっと書くことに憧れているのに、根が怠惰で言い訳がちな人間なので、なかなか行動に移さない。学生の頃も真っ白な画面を前にして「まずは書いてみる」ことができず論文もろくに書けなかった。

SNSに救われていることは多いけれど、その一方で短い文章に慣れすぎて(もちろん、長ければいいわけではないし、限られた字数で内容をまとめることも言葉を洗練させる練習にはなるけれど)、どんどんまともな文が書けなくなっている気がしていた。

国語科教員という仕事柄、書くことと書くことの指導は仕事の一部だ。去年までは上司の文章校正も相当数頼まれていた。だからといって、仕事以外で書く必要があるかといえばそれはない。

それでも、書かないことを選ばずにいたのは、わたしの書くものを読んでくれる旧友(しかも彼女は「書く人」だ)と、わたしが書くものが好きだと言ってくれたKさんの言葉とがあるからだ。実際、日々の日録でしかないけれど、このnoteで書くこともふたりの言葉に背中を押してもらったようなものだ。

そして、今日もKさんからヒントをもらう。なんの話からそうなったのか、またもや記憶が曖昧だけれど、来年あるプロジェクトを始めるきっかけを話の中で得た。

昔、何も書けずに頭を抱えていたとき、わたしは全部自分で取り組もうとしていた。でも、人ひとり、それもとんでもない未熟者が全部ひとりで仕上げようなんて驕りでしかなかった。未熟だから、そのことに気付くことさえできなかった。今だから分かる。もっと話をすればよかった。

話をすること、対話することで見えてくるものがある。それはひとりでは思いもよらないことだったりする。小さなきっかけが手掛かりとなり、目の前が開ける。今日の感動は、ここ数年で一番かもしれない。本当に目の前にパァッと光が広がる感じがしたのだ。

Kさんの言葉に報いるためにも、自分のためにも、来年、本当に頑張ろう。

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