見城さんと津原さんと箕輪さんを取り巻く有象無象から、出版とビジネスに関する乖離感について考えてみた

幻冬舎の見城さんと作家の津原泰水さんのバトルは、編集者の箕輪さんのプチ炎上という一幕もありながら、収束に向かいつつあるようだ。

この間の騒動を見ていて感じたことは、みんながビジネスとしての出版業の構造をあまり理解していない、ということだ。

みんな知らないまま好き勝手なことを言っていて、普段なんとなく気に食わないと思っていた箕輪さんを叩いてみたように見える。箕輪さんは災難であるけれど、身から出たサビでもあるのでしょうがないと思う。

さて、ビジネスとしての出版業への不理解だけど。ここにはいくつかの階層がある。

まずは出版独特の慣習や構造、あるいは文化に関わる部分。これはまあ、多くの人が知らなくても当然だ。箕輪さんが燃えていた「矜持」とか「祈り」の話は、このへんに関わっている。だから、いくら説明したところですれ違うだけだ。

一方、致命的なすれ違いは、出版とはなんと関係もない、ビジネス一般の構造と倫理に関わる部分だと僕は思った。端的に言えば、みんなあまりにも計量的な話に弱すぎる、ということだ。

言うまでもないことだけど、出版には数字に還元できないものがある。でも、だからといって数字がなくなるわけでもないし、計量を無視してよいわけでもない。

売れた、売れないにしても、正確な数字を捉えていなければ話にならない。

たとえば、「幻冬舎は売れる本しか出そうとしない」はまったくの嘘だ。そもそも、そういう出版社では、津原さんの企画は通らない。そして、実際問題、津原さんの本を経営判断として「出せない」出版社はたくさんある。

では、どういう出版社なら、「あまり売れ筋ではないけど良い本」を出せるのか? それは「経営状態のよい中堅・大手」だ。「いや、小さくても矜持があれば出せるはずだ」と思われるかもしれないが、それは「矜持がなければ出せない」ということと同義だ。

実売1000部が想定される本を出す(刷り部数は5000としておこう)ことを考えてみよう。書店や取次に6掛でおろした場合、定価1500円×1000冊×0.6で売上は90万円、印税は1500×5000部×10%で75万円。あれあれ? 印刷費すら出せない。販管費を考えれば大赤字だ。

もちろん、実売が1000部とは限らない。でもそのリスクがある以上、中小の出版社は、こうした企画に慎重にならざるを得ないだろう。

事情は、中堅・大手でも基本的には同じだ。赤字のリスクが高い企画には手を出しにくい。ただ、経営面でのバッファがあれば、リスクを取ることができる。いや、もう一歩踏み込んで言えば、「この本には文化的な意義がある」という「矜持」で本を出すためには、何よりも健全な経営をバックボーンとした経営的バッファが必要なのだ。

これは、別に出版に限らない、あらゆるビジネスに共通した構造だと思う。

幻冬舎は、今の出版界のなかでは、そうした経営的バッファに恵まれているほうではあると思う。ただ、そうはいっても中堅出版社であり、大資本の後ろ盾があるわけでもなく、書籍以外に手堅い収入源を持っているわけではない。それこそ、「日本国紀」のようなベストセラーを原資にしながら、津原さんのような企画を含めた、さまざまな書籍出版にチャレンジするというのが、外から見たときの幻冬舎の立ち位置だ。

見城さんは、ツイッターはやめたほうがいいと思うけれど、経営者として変なことをしているわけではないし、幻冬舎は出版界全体の中でみればだいぶ「矜持があるほう」の出版社だと思うので、現場の編集者の皆さんはぜひ頑張ってほしいです。

日本国紀と津原さんの本は、部数がまったく違うということで対比的に語られがちだけど、実は、抱えているビジネスレベルの構造的問題はよく似ている。

それは「出した本は売れなければいけない」(しかも、出すまで売れるかわからない)ということで、そこから抜け出さない限り、僕より下の世代の編集者や出版社に希望はないのだと思う。

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