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みんな違ってみんな良い。(当然)

実はこの記事を書く前に一本ボツにしました。
最近、沢山の人達が「限界」を迎えていたり、「お互いに否定」し合ったりしていて、そんなエネルギーを受け取ってしまって、ちょっと辛かったんです。

なので、「改めてワンネスですよ」みたいな感じで書いたんですが、しっくりきませんでした。

で、今日は夜中の3時に目が覚めて、いつも通り何かのビジョンを期待するよりも、起きてしまおうと思ったら「逆向き」の方が伝わるんじゃないかと思ってしまいました。

以前から書いている通り、

集合意識としての臨界点が来ると集団覚醒とかの大きなイベントが起こる。
みんなどんどんおかしくなって行く。
感情の乱高下。
・・・

まあ、色々と滅茶苦茶になって行く訳ですが、そんな中でもみんながそれぞれに学び、どんどん進んで行くんですよ。

だから、今まで信じていた物が突然「違う」と思ったり、猛烈に受け入れられない存在が現れたり、逆に今まで受け入れられなかった人が正しいと思ってしまったりするんですよ。

スピリチュアル的な事もそういった事が起きてもおかしく無いですよね?

ネイティブアメリカン寄りだった人が有る日突然インド寄りになって見たり。

※今お香の様な匂いがしてます。
 お香は焚いてませんし、
 この匂いのお香は持っていません。
 白檀?

だから特定のチャネラーさんの存在自体を否定したり、誰かさんだけが本物だとか、そう言う表現はしない方が良いんですよ。

素直に自分の気持ちや考えを発する事自体は良い事です。

好きとか嫌いとか、私はこの人を信じないとかそう言うのは良いのですが「敵対」するほどの表現は必要ないんですよ。
その感情も含めてね。

勿論、私も特定の人をにおわせて否定するような事は有ります。

でも、その人を信じてその人から学んでいる人も大勢いるはずなので出来るだけ名前は出さない様に努力してます。

なぜ、そんな回りくどい事をするのかと言うと、私自身、多くの「偽物」や「未熟」と出会う事によって日々成長して来たからです。

個人的には最終的に「自分」が全ての中心に安定して、その上で「他人」が無限に自分の周辺に存在する状態になるのだと今は信じているんです。

私自身、記事を書き始めてからこのサイト(note)で言う「Book」が何回かタイトルを変えてきたんですよ。

初めは何もかも知らない事だらけで、主に3次元的な事ばかりに意識が向いていたんです。

書きながら、自分の存在を確かめてきたというか、上手く表現できませんが「誰か」に頼り切った情報の集め方をしていた時期も有るし、ビジネススピだと気づかずに妄信してみたり...

私も「他人に依存」したい気持ちは有ります。
だって、チャネリングも出来ないし、世界レベルの予言なんかも出来ません。

でも、特定の「誰か」が発信している情報だけが「全て」と言う感覚は今は持っていません。

何と言うか、今の「地球アセンション」や「5次元への移行」、「光と闇の戦い」は、「闇」の情報操作が上手く行き過ぎていて、「圧倒的情報過多」になってると思いませんか?

闇の古典的な手法で、真実を隠すには「わら山の針」状態がまんまと作られてるんですよね。

他にも、「9割の真実に1割の嘘を混ぜる」なんかも上手く行われてますよね?

だから、「アセンションの途中」である人間は上手く真実を見抜けなくなるんですよ。

私もご多分に漏れずスピリチュアルに興味を持って色々情報を仕入れ始めた時には「ツインレイ」とか「開運」とか、そんな感じの情報ばっかりを毎日仕入れていました。

※最初はそんなのしか出てこないです。

学びによって人は変ります。

例えば私はインプラント(スピリチュアル的)は否定派です。
考えただけで気持ち悪いです。

でも、この肉の乗り物で行きつく所まで追求し終わったとして、どうしても足りないエリア(能力的な分野)が残ってしまったとするじゃないですか。

例えば「テレパス」的な物が全く足りないとかですね。

そうなったら、自身が完全に納得してインプラントを欲しがるかも知れません。

「お花畑」も否定派ですが、やり切って辿り着いた先が「お花畑」だとしたら、それをみなさんにも「お勧め」するかも知れません。

めっちゃしっくりくる考え方の一つに、

「ソースとの繋がりは無くならない。なぜなら自分自身がソースの一部で有り、これは自分自身がソースそのもので有るからです。」

と言うのが有ります。

そうなんですよ。

これって、もしかすると「自分になる事」が最初の一歩かも知れないじゃないですか。

ソースは源です。

全ての魂と繋がっているとされています。

一卵性の双子だって、成長していくにつれて個体差が明確になって行くんですよ。

全ての人間には一つ一つの別なステータスが有っても良いと思います。

「誰かと同じ」で有る必要は全く有りませんよ。

目に見える事でさえ、一人一人感覚も印象も変わるんですよ。


私は物理的には足が短いんです。
かなりの短足です。

それなのに私の足が長いか短いかは人によって変わるんです。

実際、「足長いね」と言われた事は今までの人生では何度も有ります。

自分自身はもっと長い方が良いと思う反面、「これで良いのだ」と言う思いも有ります。


ね?



はい。最後まで読んでくれた方、有難う御座います。
自由に表現しても良いのですが、負のエネルギーが生まれすぎるのは嫌ですね。

いがみ合ったりしても良いです。
でも、ずっと続けたりするのは違うと思います。

勿論「自由意思」を奪う行為は今後も完全否定していきます。

この記事を書き始める前に、誰かが「次のステップに進め」と言ってきました。

誰だかわかりません。

新しい「Book」を作る時期なのかも知れません。


では。


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