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セメント王は根っからの商売人

この銅像の人物をご存知だろうか。

東京の隅田川沿いにほど近い、
江東区清澄
一帯が深川と呼ばれることも多い
この地に、浅野セメントの工場、
現・アサノコンクリート深川工場が
ある。

そこに、
「本邦セメント工業発祥の地」
石碑と共に立っている立像。
浅野セメントを創業した
浅野総一郎その人である。

短躯で、おなかがポコッと出ており、
しかもスーツに長靴、ハットをかぶり、
ステッキを手にしているという、
珍妙ないでたちだ。

偶々、深川周辺を散歩していた折に
意図せず通りかかったのだが、
氏の銅像に出会ったのはこれが
恐らく2回目。

1回目は、JR京浜東北線の新子安駅が
最寄りの、浅野学園の校舎内にて
出会ったことがあるのだ。
その時も、この「短躯にステッキ」
といういでたちが妙に記憶に残った
ものだった。

それはさておき、浅野総一郎氏は
明治時代に一代で財閥を興した
大事業家
である。

1871年(明治4年)の春、23歳の時に上京。当初は、東京本郷の旅館を宿とした。この宿の主のアドバイスから、夏場は御茶ノ水の冷たい名水に砂糖を入れた「水売り」、冬は本郷の赤門前で暖かいおでん屋をすると予想以上に繁盛し貯金ができた。浅野はその資金を携え、一旗上げるために当時創業期であった横浜に向かった。横浜で勤めた味噌屋で贈答用の包みとして使われていた竹の皮に興味を持ち、贈答用の竹の皮の販売を手掛ける竹の皮屋となる。これを販売していたところ、医者であった父の旧友と横浜で偶然に再会、その勧めを商機と見た浅野は薪炭商(しんたんしょう)に転向した。

Wikipediaより

彼は富山出身。
ここに引用したのは、富山から
上京して来て1年間の記述である。

これを読んで、
氏の商売人としての貪欲さと、
「機を見るに敏」な嗅覚とに
舌を巻く思いがした。

そして、貪欲かつ機敏なだけでなく、
人のアドバイスを聞く素直さも、
商売繁盛を生んだ秘訣として注目
すべきだろう。

僅か1年の間に、
次々と手を変え品を変え、
様々な商売を試しては成功させて
資金を得ている。

水売りにしても、おでん屋にしても、
竹の皮屋にしても、最初から儲かり
通しということは考えにくい。
きっと最初の数日、数週間は、
あれこれ試行錯誤があったに違いない

そこを、きっちりとPDCAよろしく
改善のサイクルを回すことで、
儲けが出るようにしていったのだろう。

元手となる資金を得て、薪炭商から
セメント王へと更なる発展を遂げた
浅野総一郎。
王子製紙と取引をする中で、
渋沢栄一とも懇意になり、
積極的に経営へのアドバイスを
もらうこともあったようだ。

「七転八起」ではなく「九転十起」
それ位、あれこれと試行錯誤をして
事業を大きくしたという彼の人生を
活写した本もある。

実はまだ読んでいないのだが、
きっと彼の波瀾万丈な人生
出会えるであろう。
後日是非ひもときたい。


己に磨きをかけるための投資に回させていただき、よりよい記事を創作し続けるべく精進致します。