Twitterをやめた理由について

 ぼくがTwitterで『シン・ウルトラマン』を駄作だとけなしたあとアカウントを削除した件についていろいろな憶測が飛び交っているのを見てヒョエーってなりました。そのなかには、もちろん当たっているものもあれば事実ではないこともあります。ちょっと放置できないので、なぜぼくが垢消しをしたか説明します。

 「表自戦士」ないしは業界からなんらかの圧力があったのが垢消しの原因ではないかという憶測はまちがいです。たしかに数年前から取引先や非常勤先などに「電凸」や「お気持ちメール」などが来ることがあり、それは不当な嫌がらせだとは思っていますが、そういう理由であれば、ぼくはむしろ喧嘩をするはずです(というか現在進行形でしています)。

 また、ぼくが「フェミ」であるというのは完全な嘘です。デジタルイラストのことを90年代の人は「CG」と呼んでいたのですが、ぼくはその「CG」で美少女を描くこと、そしてほぼ同時期に市場が確立された美少女フィギュアの股間を作り込むことに青春のすべてを捧げた人間でした。描いては抜き、抜いては描く。彫っては抜き、抜いては彫る。「自家発電」にすべての時間とお金と体力と情熱を注いでいた当時のぼくの姿は端から見ればさぞキモかったろうと思いますが、そのような行為にこそぼくの実存のすべてがあるのであって、研究者に転じた動機も「俺のあのよくわからない情熱はどこからきたものなのか、あの文化にはどんな価値があったのか」という素朴な疑問をなんとか合理的に説明したかったからです。

 エロマンガ雑誌やエロゲー雑誌がマンガ論やオタク文化論、イラストの技法やその他カルチャーの有力なプラットフォームであった時代を知る人も今や少なくなったのかなあとは思いますが、そういった先達の仕事を無視する風潮がアカデミズムやビジネスの世界の一部にはたしかにあって、それは敬意に欠けると思っています。なので今美少女キャラクターの絵の歴史を整理する研究をしておりまして、この仕事をとても楽しんでいるところです。ぼくが書きさえすれば本が出るはずです。

 というわけで、上記のような理由で垢消しをしたのではありません。ではなぜTwitterをやめたのか? 単純に面白くないからです。数年前から楽しみにしていた映画を初日の初回に見に行って、自分が期待していたほどの出来ではなかった。そういうただのオタクの感想を汚い表現も込みで言い合うことが許容される場所ではなくなったのだなあということ。ずっと潮時だと思っていたのですが、今回の件をもって完全にこのサービスを見限ったというだけのことです。

 なんかこう、SNSがオタクの遊び場ではなくなり、自分も自分で、ぼくはただのオタクですと自己規定するには無理がある立場になってしまった。そういうわけで、Twitterから離れるようにしました。

 あ、あとですね、僕も一応物書きなのでぼくの書いたことに対する批判そのものに対してどうこう言うつもりはありませんが(もちろん反論してもいいのだが、この映画にそこまでの労力はちょっと使えません)、ぼくは批評家ではないので、以下の記事冒頭の「批評家の松下哲也さんが」という書き出しはまちがいです。前提が間違いなので記事の論理が通らなくなっています。もったいないと思うので、できれば訂正をお願いします。

 あと、これもSNSから身を引こうと思った理由のひとつなのですが、ぼくは実証を重んじるようしつけられている歴史研究者なので、仕事で書く文章にはいいとか悪いとか、面白いとか面白くないとかの価値判断は一文字も書きません。いっぽうプライベートではその規律を守る必要はないので、駄作は駄作、名作は名作というぐらいの意見はふつうに言います。しかし、そういう感想を言うにしても、それなりの数のフォロワーの前であれば一種のパフォーマンスとか公共に対する意思表示になってしまうわけで、それはたしかに不用意かもしれないなあと思ったという次第であります。

 みなさんが理想とされているところの、みんなのスキを否定しない健やかなコミュニティの形成と発展を願ってやみません。老害は去ります。

以上。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?