ぼくの『PUREGIRL』誌への評価に対する、加野瀬未友さんによる著しい中傷への反論(悲しいなあ)

 ぼくが心の底から尊敬してやまない雑誌『PUREGIRL』の編集長であった加野瀬未友さんからいわれのない中傷を受けており、大変傷ついています。

https://twitter.com/kanose/status/1528371036198010880?s=20&t=h6A79pX8FGURfVODrAAPdQ

 ぼくは加野瀬未友さんはじめ先達の仕事には敬意を持っているので、根拠のない個人攻撃をされるのはつらいです。「ポプコムが、既存イラストのトレスCGではなく、現在のような手描きイラスト風味のCGの読者投稿に力を入れていた」などとぼくが書いていたということはないはずで(だってあの雑誌に掲載されていた「CG」はどう見ても今のような「表現」に至る前の時代の例だからね)、これは明確な事実の捏造です。なぜこんな嫌がらせをされるのかぼくには理解できません。

 加野瀬さんがこだわっていらっしゃる2019年のぼくのツイートには朧げながら記憶があって、ごめんなさい、ぼくが垢消しをしているので見えなくなっていますが、あくまでもハードウェアやソフトウェアに興味のあるテックギークの遊びだった傾向にある「CG」(『ポプコム』とかのあたりはそうですね)が、パソコンのスペック向上や周辺機器の普及もあって、『PUREGIRL』らへんで「画材」つまり絵の表現のツールとみなされ始めた(この時に、今でいう「神絵師」の先駆者のような作家を発掘し、「CG」とか「デジ絵」のカルチャーに多大な影響を与えた『PUREGIRL』をぼくは尊敬しているのです)のと、表現の道具というよりはテックギークの関心事であるとみなされがちだった「CG」の手法が主にパソコン通信(これをぼくがネットワークだかネットだか言った記憶があって、加野瀬さんに「その時インターネットはない」的なことを汚い口調で言われたので、いやあパソコン通信はネットだろうし、いきなりこんな言い方するような人とは会話できないと判断した覚えがあります)で流通していたが、インターネットの普及とパソコンの高性能化にともなってパソコンが「画材」になった経緯があるということをぼくは今書いています。

 コンピュータで描いたような、あんなチャチい絵は絵じゃねえという「差別」がかつてあったが、それがある種の様式の絵のメインストリームになっていったという過程において、『PUREGIRL』ほかエロゲー雑誌の果たした功績は大きいと言っているのであって、ぼくはそういった先達の仕事に敬意を持っているということだけは理解してください。

 あと、これは、かつて深く尊敬していた雑誌を作っていた人がぼくを大した根拠もなく中傷していて、かつ仕事の妨害をしているという事案なので、ぼくは深く傷ついているし、悲しいなあと思っています。

 いずれにせよ、ぼくはあなた(がた)の仕事を心の底から尊敬し、憧れていたのだということだけは伝えたい。もしこの記事で誤解が解けたらうれしいです。

 まあなんにせよ、歴史学者は一般的に、これがいちばん正しいのだという「正史」のようなものは書き得ないと考えています。歴史研究は大学入試で見られるような正誤問題の解答を埋める行為ではないのです。いわゆる「反証可能性」を担保しないといけないルールになっていて、自分が一生懸命調べて到達した「真理」のようなものをすぐに反証されたりするのが日常で、これはけっこう大変だなあと思うこともあるのです。大変だなあと思うのだけど、90年代のオタク文化も今やおじさん、おばさんたちの薄れゆく記憶の微睡の中にありますから、誰かが書いておかないといけません。

 歴史を書いた著者の見解はその著者のものです。そうやって多様な著者によって書かれた歴史を批判しあうことによってしか、歴史記述や研究は成り立ちません。これが大前提です。

 当然のことながら、批判と中傷はちがいます。そして残念なことに、ネット時代において、オタク文化の研究者はしばしばいわれのない中傷の的になりがちです。なんでかというと、それをやれば「いいね」とRT数が稼げるからです。そういう経済の餌食になるのがオタク文化の研究者なので、ぼくは余程の覚悟がないかぎり、この分野の研究をすすめません。それはぼくのサンドバッグ具合を見ていればわかるでしょう。

 このように、今やオタク文化は極めて面倒臭いアンタッチャブルな対象なので、これの歴史を書こうというのはなかなか躊躇するかもしれません。あなたが多少の実績をあげれば、まず間違いなくいわれのない中傷をされるからです。ぼくが(もちろん内心怒ってはいるのだけど)平然としていられるのは、事実無根の中傷行為が自分の仕事に悪影響を及ぼすような社会的立場に今いないからであって、この被害を若手の頃に受けていたらどうだったでしょう。想像するのもおそろしい。こんなことを言わなければならない状況がとても残念です。

 まあ、文化研究はしばしば著者の実存の問題に直結することでもあるので、こういう面倒臭いことがあっても、それでも書かなければならないわけです。これはどうしようもなく面倒臭い仕事に従事してしまったぼくのようなややこしい人間だけが背負っておればいい信念なので、安易に人に薦めたりはしませんが、でもこの研究は面白いですよ!

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