ある朝のこと。

あれはたしか3年前の7月初め頃だったと思う。夜中2時、僕はネクタイを3本繋げてそれを部屋のカーテンレールに結びつけ、現世との関わりを絶とうとしていた。何もかもが見えなくなっていた。新しい朝を迎えるのが毎日辛かった。

当時の僕は2社目の会社で、農業資材メーカーの営業マンをしていた。営業は数字が第一である。僕は昔から「コツコツ成果を出す」ということが苦手で、部署でトップの数字を出す月もあれば全く成果が出ない月もあった。朝から晩まで営業車で関東近郊を這いずり回って、既存の客先を回ったり、飛び込み営業して新規を狙ったり。まあそれ自体はそんなに苦ではなかった。飛び込み営業とかむしろ楽しいと思っていた。相手がお兄さんであれおじさんであれ、人と話すのは苦じゃなかった。断られたらもうそこには行かなければいいだけだし。ただ結構メンタルの波があって、頑張る時は頑張るんだけど頑張れない時はとことんサボっていた。一度横須賀の方まで営業に行ってどこの客先にも行かず、海辺のコンビニに車を停めて夜まで寝ていたこともある(さすがにこれは社会人失格ですね。見ている方はマネしないように)。

そんな波のある仕事をしていると結果の出せない月が続けて出てくる。当時はその会社に転職して2年が経とうとしていた頃で、即戦力として採ったであろう僕に対しての期待が大きかった分上司も歯がゆい思いをしていたんだろう。毎週月曜の朝に行われる部署ごとのミーティングでみんなの前で詰められる。なぜ数字が出ないんだ、いつまでに数字作るんだ、〇〇さんのとこには行ったのか、なぜ行かないんだ、今まで何してたんだ、お前改善点言ってみろ、やる気ねえのか…。

当時の僕は30歳。たまに学生時代の友達と飲んだりすると周りは係長とか主任とかリーダーとか肩書がつき始めていて、まだ平社員だった僕は引け目を感じていた。やがてそれはコンプレックスとなり、僕の世間や常識に対する視野を狭くしていく。プライドがあったんだと思う。

昭和体質、体育会系の会社だったから、仕事は毎日終電まで。静岡とか群馬とか茨城とか埼玉の奥地とかまで営業に行っても、2~3時間かけて都内のオフィスまで戻ってきて資料作り。翌日は4時半に起きて5時に出発とかもザラだった。飲み会も多かった。酒を飲みながら人と話すのは結構好きだから飲み会自体は苦じゃなかったけど、「お前なんであのタイミングでお酌に行かないんだ」とか「〇〇さんに挨拶しなかっただろ」とか、そんな小言を毎回言われては飲み会だって嫌になる。

そんな大小の出来事で僕の精神は確実に蝕まれていった。


首を吊って楽に逝くには頸動脈を絞めなければならない。気道を絞めてしまうと苦しくて結局躊躇してしまった。何度ググってやり方を調べてやり直しても結局うまくいかなかった。自殺に成功した人のレポがあるわけはなく、今ある「楽に逝ける首吊りの方法」とか、全くあてにならないんだなと思った。


気づけば明け方5時になっていた。カーテンの向こうはしらじらと空が明るくなり始め、蝉の合唱が始まろうとしていた。

どうやったら死ねるんだろう。途方に暮れていたら、父親が部屋に入ってきた(当時僕は一時的に実家に帰ってきていた)。

その時父親が何を言ったのかは覚えていない。何か事務的な用事があったのか。僕が自殺しようとしていることには触れなかった。気づかなかったのか、あるいは気づいていたけど触れなかったのか。カーテンレールにネクタイを結びつけている目の前の状況は異様だったとは思うんだけど、それについては特に何も言われなかった。

僕は親に自殺を止めてほしかった。できれば、今のこの苦しさをわかってほしかった。解放してほしかった。でもそれは叶わなかった。親はそれでも、僕が世間に迎合することを求めた。常識の中にいて、「一般的な社会人」であることを求めた。

この世界は誰も助けてはくれない。親ですら助けてはくれなかった。

絶望。恐怖。諦念。その先には強烈な開き直りがあるのだとこの時知った。

絶望を超えてすっかり開き直った僕はその日会社を休み近くの病院の精神科に行き、適応障害の診断書をもらって(本当はうつ病の診断書が欲しかったんだけどうつ病とは診断されなかった)、会社にその旨を連絡し、退職の意思があることを伝えた。もうどうなってもいいや。月に20日アルバイトして15~20万ぐらい稼げれば生きてはいける。結婚とか、家とか、車とか、そういうのを全部諦めたら、生きてはいける。僕の持っていたちっぽけなプライドとか自尊心は、もうその時点で全部捨ててきた。自然消滅したという方が正しいか。

そのあと会社に行ったのはたしか1回だけだったと思う。荷物の整理に行った。腫れ物に触るような扱いで誰も話しかけてはくれなかった。唯一仲の良かった同い年の先輩に「大丈夫かお前、顔が死んでるぞ」と言われたことだけ覚えている。そりゃそうだろ。一度は自死を決意させた会社に勇気を振り絞って来てるんだから。

荷物を整理して午前中で会社を出た僕は、これで自由になったと思った。解放された。パッと世界が開けた。息を切らして丘を登りきったら、広大な草原が目の前に広がったかのようだった。脳内に久石譲『海の見える街』が流れた(魔女の宅急便のBGMね)。

傷病手当金と失業保険で1年ぐらいは暮らしていけるだろう。幸いなことに実家に帰ってきているし、親はしばらくしたら仕事はどうするのとかうるさくなるだろうが全部無視でいいや(別に仲悪いわけじゃないです。念のため)。

そこから1年ぐらいして今のYouTube活動を始めるわけだけど、それはまた後日に。


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