無趣味のわけ

珍しくリモートで他社のかたと交流する機会がある。
簡単な自己紹介を作ろうとして、趣味を書こうといつものように「読書」と書こうとして手が止まる。言うほど本を読んでないのに趣味は読書で良いのか?

最近プライベートな時間をどう過ごしたっけ。鬼滅の刃は夫が購入して全巻読んだし子どもと映画も行った。しかし自分から購入したりわざわざ行動したことって最近何かあったっけ?

ああ、テレビドラマは時々能動的に見ている。正月は逃げ恥のスペシャルを見た。しかしその程度で趣味はドラマ鑑賞と言って良いのか?2週間の正月休みのうちのほんの2時間だぞ…

何故、読書が減ったのか。ドラマも減ったのか。それは子育て中の共働きなら当然である。時間がないからだ。

単に時間がないと言うとすこし語弊がある。正確には、完全に自分都合になる時間がないということ、もっと言えば、自分の固執するものを手放すことによって精神の安定を得るためだ。まるで仏教みたいだ。

子どもや夫に話しかけられた時にイライラするのは、その話しかけが何かの邪魔に感じられる時である。急いでなにかをしているとき、疲れているとき、別のことで頭がいっぱいのとき、外出先で行動に制限があるとき、とにかく他のことにリソースが割けないときばかりだ。

特に、なにかに夢中になりたいとき、夢中になりつつあるとき、夢中になっているときに割り込みをかけられると、邪魔に感じてしまう。イライラしてしまう。
私の場合は、物語に没頭したいときに顕著だ。

私がイライラすると、それは周囲に伝搬する。子どもは不機嫌になる。夫は不機嫌な子どもに手を焼いてイライラする。イライラのスパイラルだ。悪循環が容易に起きる。

だから、最初のイライラをなくすために、没頭することを手放してしまった。固執するものさえ無ければ、割り込みされてもさほど気にならない。「ママみてー」「ママこぼしちゃった」「これやって!」「いっしょにやろ」次から次へと出てくる要求に、比較的穏やかに受け答えできる。対抗する欲さえ持たなければ精神を安定させていられる。

読書の時間が全くないわけではない。ドラマを見る時間が全くないわけではない。しかし割り込みをされないでこれらが実施できる時間はほとんどない。

趣味なんてない。
そんなものあるわけないだろ。

煩悩を捨てるような母親業をはじめてからもう9年が経つ。

#無趣味 #母親業


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