人間関係構築の大切さ。
私は昔から友達が少ない。自然に私らしく生きているだけなのだが、男女問わずとにかく人が寄ってこない。学生時代、ナチュラルに友人関係を築いている同級生を不思議な目で眺めていた。
それは今でも変わらない。某組織に勤めて今年で9年目になるのだが、未だに馴染めない。同期や後輩が、上司に飲みに誘われ、やれ派閥だの誰々課長がどうだの、私の全く知らない話をしている。おそらく、組織での私の知名度は最下位クラスだろう。
生まれつき社交的な人間は、それだけでアドバンテージがある。たとえ実家が貧乏でも、補ってあまりある能力である。そういった人間は、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会、どのステージにおいても仲間ができる。素晴らしい青春が送れ、ステータスの高い地位につける(可能性が高い)。
逆に生まれつき内向的な人間は一生を通して莫大な不利益を被る。先天的なものなので、本人の努力ではどうしようもない部分がある。
ではなぜこうなったのか。私もかつては真剣に悩み、自己分析をした。乖離性愛着障害という病名に天啓を受け、私はそもそも生まれつき欠けた人間なのだと思った。先天的に、他者に対する親しみや愛情が欠けているのだと。
家族には社交的な人間が多く、いとこや親戚を見ても、概ね外交的で、友人に囲まれている者が多く、私のような性質を持つ人間は見当たらない。遺伝するものではないのだろう。しいて言うならば、祖父は社交的ではなく、家族以外に話す相手がいなかった。葬式の時も誰も弔電を寄せなかった。私の未来だと思った。
「全ての悩みは人間関係の悩みである」という言葉をどこかの啓発書でよんだことがある。至言だと思う。仕事や学校、社会のあらゆる場で人間関係が生活の基本となる。仕事が辛くても仲間がいると頑張れるし、ミスをしても誰かがかばってくれる。社会保険や医療保障が公的なのに対して、人間関係は私的なセーフティーネットと言えるだろう。
ではセーフティーネットのない人間の末路は?優れた技術や能力があれば、多少コミュニケーションに難があっても許される。天才というのは往々にして変人が多い。コミュ力がなく能力もないとあれば、社会に居場所はないとまでは言わないが、それ相応の人生が待っている。結局、特別な才能がない人間は、コミュニケーション能力を伸ばすしか生き残る道はないのだ。
職場が息苦しい時は、出来る限り外に出ようと思う。趣味、学び直し、サークル活動、セミナー、何でもよい。そこで出会う人々と人間関係を築く努力をする。人生に対して積極的になる。日常の狭い領域から一歩踏み出さなくては何も始まらない。
自分の人生は、誰も面倒を見てくれないのだから。
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