殺したかった母が死ぬこと


私はついに母親を殺せなかった。

私が殺せなかった母親が、今、勝手にジワジワ死んでいく。


母に贈り物をあげて、あげてよかったと思ったことがない。母の日にカーネーションの鉢植えを贈ったら「私では枯らしてしまうから」と言って、ガーデニングの得意な祖母にあげていた。真夏生まれの母の誕生日にガラスの風鈴を贈ったら「うるさいと思われてしまうかもしれないから」と机の引き出しの奥にしまわれた。毎朝飲んでいるコーヒーをもっと美味しく飲んでほしくて贈ったホーローのコーヒーポットは「割れるのが怖いから」と言って箱に戻され、しばらくすると同じ形の丈夫な電気ケトルが家にあった。

大切にしたかったのだと思う。私が贈ったものたちを壊さないように。私が贈ったもののせいで、私や母が傷付かないように。でも私は、一度も音を鳴らすことなくしまわれた風鈴が粉々になっているのを引き出しの奥から見つけたときのあの絶望を、胸をえぐられるような悲しみを、十数年たった今でも覚えている。

おそらく、私もカーネーションや風鈴やコーヒーポットと同じように、「大切にされていた」のだろうと思う。

母はどんなときも私が「失敗」しないよう、私を「母の選ぶ正解」に導いた。髪の長さや洋服、遊ぶおもちゃ、読む本。母にとって女の子は髪を伸ばし、お洒落で品のいい服を着て、リリアンで遊ぶのが「正解」だった。子供は無邪気であるべきで、男女の恋愛などを描いた少女漫画は禁止されていた。挨拶や食事のマナーも厳しく躾けられ、それは概ね激しい怒鳴り声と痛みによって私に叩き込まれた。私は「ハア?てめえ!」と言われるのが怖くて、ぶたれるのや蹴られるのが怖くて、「髪を切りたい」と言えないまま高校に入学した。母の言うとおりにしていれば、私はちゃんとした人間になれるはずだった。


残念ながら高校で完全に反発し、どちらかというと世間の正解からも外れてしまったが、とはいえそれまで必死に母の望むように生きてきた私は、でも、そのまま生き続けていたとしても恐らく母の成功作品ではない。申し訳なく思う。よくここまで育ててくれたな、と感謝している。同時に、殺してやる、とも思っている。心のたくさんのシミが擦っても擦っても消えなくて、思い出しては腹の底がグツグツと煮え始める。それに慌てて蓋をして、「だけど大切にしてもらった」と繰り返し思う。育児放棄もされなかったし、丁寧に作られた幼い頃の私のアルバムも残っている。母が繰り返し買ってきてくれた麩饅頭がとても美味しかったことを覚えている。助言に従い大きな失敗もせず生きてきた。私はちゃんと「大切にしてもらっていた」。それは呪いだったと思う。誰が私にかけたかはわからない。


「親」からは望んだものが必ず全て得られる、という幻想がまず間違いなく私の中にあった。「愛」はすべてをゆるすと。「親」は完璧で、「親の愛」は揺るぎなくいつも正しい結末を導くと。そして、だからこそ「子」は「親」の望むようにあるべきと。夫と出会ってからジワジワその幻想は崩れ始め、オヤ、と思って慌てて毒親やAC関連の書物を読み漁った。今や足元に崩れ落ちたこれが全て幻想であった、とはっきり気が付いたのは、数年前母が癌であるとわかった時だった。

母は大腸癌で、それはもう肺だのリンパだの、身体中のあちこちに転移していた。手術で取り除くことは難しく、抗がん剤治療になった。抗がん剤の副作用や、ショックや、そういうものたちで母はあっという間に小さくてか細くて弱々しいものになった。食われていってる、と思った。仕事は無論できず、家事も趣味もままならなくなり、家で想像を絶する痛みや不調を耐えながらずっと寝ている。私は妹と「母が死ぬ」という話をした。それで、はあ、死ぬのか、と思った。殺すまで生きていると思っていた。そして、母を殺せば私にかかった呪いはきれいにとけ、母は私にしてきたことを悔い、私は母のすべてを許し、最期は本当に純粋たる愛をもってして互いを包み合うだろうと思っていた。つまり、根本にあったのは「憎いから殺したい」のではなくて「愛してるから愛されたい」だったわけである。つまり「私が望む母に変化してほしい」。今死にジリジリ近付いていく母を見ていてわかるが、あるいはそうなった今、母の半生を思い返してわかるが、母がどのように死んでも、奇跡的に生き続けられてそれがどのような生でも、そういうことは起きない。「他人を変えること」で「みんなが救われるエンド」はない。あるわけがない。もしもどこかにあったとして、それに望みをかけて生きていく人生の何と愚かで寒々しいことか。

つまるところ、「私が母の変化に期待をしていたのだとしたら、そんなことしても無駄なんだ」というのが心の奥深くに空いた穴にストンとはまったのだろう。諦観の念。彼女の思う通りの子になったとしても、私が望むものをくれない可能性は当然おおいにある。彼女が私のために何かをしてくれても、私は彼女のために変化する必要はない。そして、私のこれからの人生に責任を持ってくれるのは私だけだ。それは別に、母と私の関係に限らない。あらゆる本に書いてあったけど、それがやっと実感として私の中に生まれた。

恐らく母は、母なりに満身創痍で愛を注いでいたに違いない。このノートの頭に書いたように、「大切にしてくれていた」。愛とは独善的なものだね。ただし、だからといって私が感じた痛みは嘘ではないので、別にそこの関係について私が今悩む必要はないね。などなどと、ちゃんと自分と向き合えたこと、まっすぐ生きてきたタンポポみたいな夫に出会えたこと、「母」という「前例」がいるおかげで「毒親気質の発動条件になる」と考え得る環境や条件を潰していけること、そういう諸々で私はようやくちゃんと自分の人生を選択することができて、その選択の一つとして子供を産んだ。それは例えば「母の代わりに愛してくれる人が欲しい」みたいなのではなくて、本当にある種淡々とした選択の一つなんだけど、まあ妊娠に至るまではいつか他で書きます。

ちなみに、ここまでぼやいておいて今更だけど、これは「毒親育ちでも、親を憎んではだめ!」とか「復讐は何も産まない」「親を殺したいなんて間違っている」という話ではぜーーーーーーーーーんぜんないです。そんなのは、特に他人のそれはくそほどどうでもいいです。たまたま今の私がそうだったというだけで、人生を賭して憎しみきったほうがいい奴もいるかもしれないです。自分で考えてください。

閑話休題。

とにかく、癌発覚から何とかぎりぎり今のところ生きている母が、数日前に合併症やらなんやらでちょっと重めの手術をした。手術は成功したようだが、如何せん1か月超えの長期入院予定だ。というか、医者には退院させられないかもしれないと言われた。いよいよ死ぬ、死ぬぞ、と思うと塞いだはずの心の穴の奥から「私が殺すまで、私を私が望むように愛するまで死なないで」と幼い私の泣き声が聞こえてくるようで、そわそわしてしかたない。こういうとき、言語化すると落ち着くタチなのでそのようにした。それでもそわそわしていたようで、夫がミルクティーをいれてくれた。きっと母が死んだら私はすごくすごく後悔して泣くだろうが、でも私は大人なので周りの人に支えられながらあっという間にそこを立ち去るだろう。来世で出会えたら、そのときは健全な愛情を持って触れ合おうね。まただめだったら、その時こそ私があなたを、あるいはあなたが私を殺そうね、まあ一回くらい奇跡エンドを信じてそういう人生があってもいい。

殺しそこねた母はジワジワ死んでいき、私はそのおかげで自分をジワジワ取り戻した。私は夫と娘と生きていく。生きていきます。大丈夫。

おしまい

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