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『中国文学講話』を読んだ

2021/4/2、上野にある喫茶店「ギャラン」にて読了。お喋りに興ずるお客たちの喧騒の向こうで古き良き歌謡曲が聞こえてくる、正統派の純喫茶だ。

倉石武四郎先生の文章には『中国語五十年』(2020/5/10読了)で既に触れたことがあるが、この本は先生がこれまでの反省を振り返るというエッセイであったのに対し、今回の『中国文学講話』はその名の通り先生の講義をまとめたものだ。本の性質は違えども、エッセイでみられたやわらかい語り口はそのままに、その深遠な知識をうかがい知ることができる。

高校時代の漢文の授業で、荘子の「混沌」を読んだのだが、そのあまりにも荒唐無稽で理不尽な内容にクラスは騒然とした。しかし第三章「論理と話術」を読んだ時に、「混沌」という話の謎が少し氷解したような気がした。多少理屈っぽくなる気もするが、もともとそういう文体だということもあるし、ぼくにとっては重要な示唆だったので、開き直って書き留めておくことにする。

これは、北海/南海を司る2人の帝が「混沌」に親切にしてもらったお礼に、「人間には生活上便利な7つの穴がある」という理由で混沌に穴を開けたところ、混沌が死んだという話だった。つまり「混沌」という不定形なものに「穴」という形を与えたことで、混沌はもう混沌ではなくなってしまったのだ。荘子は自身の求道する「道」を「混沌」、事物の「名」を「穴」になぞらえて、「道というものが道と言えたらもうそれは道ではない」と言いたかったのではないだろうか。

読書をしていると時折、納得しかねるままに忘却の彼方になっていたことがすっと溶けて消えることがある。

他に、「怪」と「奇」の区別・盛り場における「かたりもの」から「うたいもの」における変遷・『儒林外史』と『紅楼夢』にみられる人間臭さについての話が印象に残った。特に『紅楼夢』の作者が途中で交代していたらしいことには驚いた。中国五千年の歴史が生み出した文学の途方もなさを思うと、なにかこう目に込み上げるものがある。

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