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『日本語の素顔』を読んだ

2021/4/6、池袋・梟書茶房にて読了。正しくは「ふくろうしょさぼう」と読むらしいが、当初は脳内で「カラスヤサボウ」と読んでいた。何故そのような読み方をしたのかは、ボーカロイド曲を聴いて青春を送ったひとであればお分かりになるやもしれぬ。「共犯者」という良い曲があるのでぜひ聴いてみてほしい。ぼくは中2の頃、伊東歌詞太郎さんがカバーしたものをヘビロテしていた。

中学受験の現代文で、外山滋比古先生と鷲田清一先生の文章が出てくると、うげげと思った記憶がある。小学生の頭では、どうもその文章の意図するところが掴みにくかったのだ。しかし幼心にも、この文章は間違いなく面白いことを言っているはずだという確信があったので、自分の理解力の乏しさを歯がゆく思ったものである。

21歳の今、先生の文章を読むとむしろ読みやすく感じる。時折なにを主語にしているのかが曖昧なところもあるが、これは説明しすぎてはかえって美しくないという、先生の美学によるものであろう。

1981年にこの本の初版が発行されているが、この頃と現在とでは言葉の様相は様変わりしている。80年代時点ではまだパラグラフリーディングについての教育が確立していなかったようであるし、「鈴木内閣と致しましては…」といったような言い回しは現在ではごく一般的に存在する。先生がご存命であれば、今の言語状況をどうお思いになるかお訊きしてみたかった。

「日本語は室内語として発達した言語なので語尾や子音を呑みがちである」という指摘や、「説明しすぎることをよしとしない日本語の美学が討論よりも座談会を好む風潮を産んだ」という考察の面白さ、「横書きの日本語が読みにくい理由」についての洞察の鋭さはさることながら、それらの興味深い話題が最終章「素顔の日本語」に結集する様は見事である。我々は最終章より前のエッセイ群で個々の話題を楽しみつつ、先生の言わんとすることの総体をなんとなく掴み、最終章を読むことでその総体の全貌を確認することができる。

ひとつ言うとすれば、子供の言語教育の責任を母親に押しつけ過ぎているきらいがある。女性の教育水準が高まったことを喜びながらも、そうした女性たちの言葉が動詞から名詞中心のものに移行していることを、先生は憂いた。しかし、こうした言葉の変化は社会が発展していく上では仕方の無いことであるし、子供の教育に関わるのはなにも母親だけではない。このことについては、先生も時代の限界を超えることはできなかったようである。しかし、現代においては前述のような問題点が見受けられるにしても、この含蓄に富んだエッセイを読むことの価値は余りあるものである。

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