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『べつの言葉で』を読んだ
2022/2/3、読了。
ベンガル系アメリカ人作家、ジュンパ=ラヒリによるイタリア語のエッセイ集。イタリア語による実験的掌編2作も同時収録されている。外国語系の大学に通う学生の端くれとして、母語ではない言語で、自分の内面をさらけ出す文章を書くことの儘ならなさは、それなりに理解しているつもりだ。その忍耐強く崇高な営為には頭が下がる。何人かの友人たちが、好きな本だと連絡をくれた。
ラヒリの言語的アイデンティティーは複雑である。幼少期から家ではベンガル語、外では英語を話すことを求められてきたラヒリは、どちらの言語に対しても疎外感を感じていた。自身を“根無し草”のような存在であると捉える彼女にとって、イタリア語は初めて親密に感じられる言語であったという。
彼女のイタリア語への熱狂には凄まじいものがあり、文章の端々からそれは滲み出ている。イタリア語に対峙する彼女は、もはや世界的作家ジュンパ=ラヒリではない。他の学習者と同様、言語という偉大な壁の前で孤独に震えるちっぽけな存在に過ぎない。ラヒリはまるで巡礼のようにイタリア語の単語を拾い集めていく。祈りのようにイタリア文学を読み、修行僧のようにストイックにイタリア語の文章を綴る。
そうまでしてイタリア語に没頭する彼女に対して、世間の眼はあまりに無関心だ。言語的にイタリア語に似たスペイン語の素養があり、いわゆる「アメリカ人らしい」外見を持つ夫に対する複雑な感情を綴った『壁』には抉られた。ただ、言語に対する情熱をここまで持つ人間のことを、あまりよく理解できないひとがいることもわかる。というよりも、それがマジョリティーの反応だ。ぼくだってそこに含まれるかもしれない。良し悪しの話ではなく、それは仕方がないことだ。だからこそ、誰にも文句を言わせないくらい上達するしかないことを、ラヒリは痛いほどに理解している。
英語で書かれたラヒリの小説は、温かできめ細やかな質感を持つ文体が特徴だが、イタリア語で書かれた掌編には、ある種の透明なつめたさが感じられたのが印象的だった。
語ればキリがないが、本書は外国語を学習する全てのひとに示唆を与えてくれるにちがいない。
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