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『幽霊たち』を読んだ

2021/4/19、ティーティラミスフラペチーノを飲みつつスタバにて読了。ぼくの飲み方が下手なだけかもしれないが、無防備にストローを吸うと細かいティラミスの生地が喉奥に飛び込んできて盛大にむせる。味は美味しい。いつもの通りだ。思ったよりも甘くないし、アールグレイの香りとティラミスの風味がうまく噛み合っている。

外に面したガラス張りのカウンター席に座っていたのだが、道行く通行人たちが怪訝そうな顔でこっちを見てきた。かなり視線を感じたので、ぼくの勘違いということでもないと思う。まあ、通りがかった喫茶店に何も書かれていないまっさらな表紙の本を読んでいるひとが座っていたら、何を読んでいるか知りたくなるのも当然だ。「あのひとが読んでいた本って何だったんだろう」と寝る前に悶々とさせるのも気の毒なので(ぼくはたまにこれで眠れなくなる時がある)、せめてもの罪滅ぼしとしてここに記しておきたい。この謎の本はポール=オースターの『幽霊たち』である。

ぼくの貧相な英語力でも読めそうなほど原文が簡潔に書かれてあるらしいので、ぜひペーパーバックで読みたいと思い永らく探していたのだが、これがなかなか見つからない。出版社が出しているあらすじを読む限りかなり面白そうだ。もう我慢できない!つい和訳に手を伸ばしてしまった。柴田元幸先生の訳なら、原文の雰囲気にあらん限り寄せているに違いないという信頼がそうさせた。いったい何年後になるのかわからないが、原文で読むのは後回しにしよう。

「ブラウンを師匠に持つ私立探偵ブルーが、ホワイトに雇われブラックを見張る」だなんて、なんの悪ふざけなのかと思うだろう。しかしこれは紛れもなくこの本を要約した1文だ。主要な登場人物は色の名前で書かれ、推理小説のように進んでいくのに特に何かが起こるわけでもない。

そんな小説が面白いのか?不思議とこれが面白い。明快な文章で構成された物語を読み進めていくと、読者は否応なしに「自分とは何か」という問いを突きつけられることになる。具体的な文豪や映画といったエピソードが登場するのにも拘わらず、主題は常に抽象的なままだ。その主題を追おうとすると、いつしか思考の海に漂流している自分に気づく。

都会的な浮遊感と虚無感というモチーフは村上春樹を彷彿とさせるし、推理小説でありながら推理小説ではないという形式はアントニオ=タブッキを連想させる。しかし個人的には、オースターの文章はこの両者よりも透明であるように感じる。あまり感情を介すことがない、低温の文章だ。いずれにせよポール=オースターのような作家が突如現れたことは、放浪や多様性を重んじてきたアメリカ文学史において間違いなくひとつの特異点だといえる。

「何が起きたかを書いたところで、本当に何が起きたのかが伝わりはしないのだ。」

ところで、これだけ本文に数々の色が登場してくるのに、表紙はまっさらなんだなあということに今思い当たった。あえての白ということか。

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