優しさとは

小学生の頃流行ったプロフィール帳の交換

「持ち主の印象」という欄があった


そこに8割くらい書かれていたのが、

「優しい」

どうやら私は優しい人だったらしい。


(というのも私は記憶力が著しく低く、ほとんど小学生の頃の記憶が無いのだ)

(映画の内容もすぐ忘れるため2回目も新鮮な気持ちで楽しめるし同じ箇所で驚いたりする)


まあ今思うと、小学生の語源力でその場を埋めるとしたら、

「おもしろい」「かっこいい」「かわいい」「きれい」「やさしい」「あたまいい」「おしゃれ」

くらいなので、

引くほど人見知りで引っ込み思案だった私は「面白い」ではないし

当時一重で、日焼けしまくった肌で星の着いた原色のTシャツを来ていた私は「かわいい」「おしゃれ」「きれい」は除かれるし

周りみんな予備校に通っており、私も置いていかれないよう必死で勉強していた位なので「あたまいい」わけではない

消去法で「やさしい」が選ばれたのかもしれない。


それでも、私が優しい人であったならば、
その頃の「優しさ」は純粋な優しさであったように思える。


そして大人になるにつれ、優しさにも種類がある事に触れてきた。


その殆どが、

下心のある優しさ

ということも。


見返りを求めた優しさは果たして本当の優しい人と呼べるのだろうか。


見返りを求めずに優しくするなんて出来るのだろうか。


友達に頼まれた事をする

これは友達にいい顔して今後も関係を持ちたい、という意思表示に繋がる優しさが含まれるし


人に道を聞かれて、優しく答える

これは自分の「いい事したなあ〜」という気持ちよさに繋がる優しさだ



私はよく、

「優しい人が好き」

「優しい人になりたい」

と言うのだけれど、


最近気が付いたのは、

優しさの許容範囲が広い人が好き

そういう人になりたい

ということだ。


人は人と関わる時点で、少なからず優しさを発揮するものだ。

「そこの醤油とって、」「はいどうぞ、」

これも優しさだろう。

「10キロ先の醤油とって、」「はいどうぞ、」

ここまでする人は中々居ない。

相手のことを気遣って、いかに相手の喜ぶことを出来るか、どこまで出来るか

これが優しさの許容範囲の広さだと思う。


この前友人グループとドライブに行ったとき、
東京に着いたのは終電のある時間をとっくに超えた2時とかで、解散しようにも出来なかった。

みんな家はバラバラなので朝までどこかで時間を潰すか、という話になったのだが


私は翌日仕事があり、それを知っていた友人が、

私のことを家まで車で送るよ、と提案してきた。

大層びっくり。

ずっと運転してきて疲れ果てている中、家が真逆で片道1時間かかる私の家までわざわざ送るよ、と



最初は断っていたが、みんなに気にするなって、と言われ、甘えることにしたのだが。



優しさのキャパ広すぎない??


ああ、この人に一生ついて行こう、と思った。



私は広く浅く、環境が変わればすぐに切れるような交友関係になりがちなのだが

それでも長く仲良くしてもらってる友人を思い返すと

みんなめちゃめちゃ優しい。

(持っていたとしても)下心を感じさせない優しさ、というか

その優しさを受けて、ああ、大切にしなきゃなあ、と思うタイミングがあり

私もその人の為に出来ることは尽くすので

(10万貸してと言われたら迷わず貸すくらいには)

そういう意味では結果として見返りのある優しさになるのだが、



見返りを期待しない優しさを自然とできる人


そういう人に私もなりたい。


ただし、雨上がりにコンクリートに出てきてしまったミミズを助ける時でさえ

「いいことしたからライブのチケット当たらないかな」


とか考えている時点で自然とはかけ離れているのだが。


実はみんなそんな感じなのかもしれないし

でもそれを隠せているのであれば

結果としていい人になれるのかもね。



ミミズの恩返しで、超絶優しい旦那現れないかな。

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