ウィトゲンシュタイン(随時更新)

前期

『世界(そのもの)は人間が理解できる意味を備えていない』
世界理解には、人間が理解できるフレーム【言語】が必要

言語を分析することで、思考=言語の限界を明確にする必要

【写像理論】
前提:世界は事実の集まり
各事実には対応する【科学的言語】が存在

山が綺麗に色づいている
トロッコが線路の上を走っている

以前の哲学は言語の誤用で成り立っている

例『神は善である』という命題

『神』や『善』という言葉の定義は定まっていない
定義が定まっていない言語を利用して、事実を言語化することはできない

『事実を確かめられない文章』はそもそも言語の誤用

哲学がやるべきは言語化できない事実についての探究ではなく
言葉にできることとできないことの境界線を確定させること

事実とセットで存在する言葉に関しては分析を通してその意味を理解することができる
事実が確認できない言葉に関しては、その意味の理解は不可能

『おおよそ語りうることについては、明晰に語りうる。
そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない』

人間が理解できる範囲を明確に提示
→境界線の整理は終わったので、あとはその内側を分析するだけ?

前期ウィトゲンシュタイン
後にアメリカの哲学界に引き継がれ、
論理実証主義のカルナップなどに大きな影響を与える

後期

論考においては、事実とセットになった言語を【科学的言語】と表現
これはいわば、事実を表現するための厳密な言語

我々が話す言葉は科学的言語ではなく、日常言語
日常言語から科学的言語が体系化されている

科学的言語で構成された文章を理解するためには
その前提の【日常言語】を理解しなくてはいけない

日常言語においては
言語と事実は必ずしも一対一で対応しない
言語の多義性
文章や会話の流れの前後関係からその意味を推察

【言語ゲーム】
日常の様々な関係性の中で言語の意味が複数に分裂すること
言語は完全に独立して存在することはできず
あらゆる言語は言語ゲームの中で使用されることで初めて意味を持つ

日常言語を理解するためには、言語ゲームのルールを把握することが必要
ルール把握の為に自身もそのゲームに参加しなくてはいけない
しかし、科学的言語と違い、日常言語をいくら分析したとしても
そのゲームの中に自分自身も含まれてしまっているので
そのゲームの全容を捉えることはできないと考えることも

この結論については現在でも様々な解釈あり
分析哲学とは、事物そのものを分析する学問ではなく
事物を表現する言語を分析する哲学

分析哲学はその後、英米で発展を遂げ
現在の哲学の主流となっている


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