デリダ(随時更新)

デリダの哲学の結論
脱構築は正義であり、正義とは他者の歓待

差延について

現実=世界は一個の表現、この表現が「現象」
世界に属するものは、減少する「何か」

「何か」が現象するためには、「何か」は他の「何か」から区別されなければならない
この区別を可能にするものが記号
構造主義の言うように記号は差異の体系

言語を扱う我々にとって、世界は(言語)記号の網の目で覆われている
そのため世界はテクスト(書物)と言える

差異はどのようにして世界にやってくるのか
差異が生起、到来するためには、「何か」と「何か」が現象し、
分け隔てられなければならない

「何か」が認識された時には
「何か」と「何か」の差異化はすでに完了してしまっている

言い換えれば、差異は「何か」が認識された後に見出されるもの
「何か」に遅れてやってくるもの

このため、差異化する差異は、遅延(化)するものでもある
このような、差異の差異化し、遅延する運動を「差延」という

その為、「何か」の減少の後では、
それはその「何か」の本体にはすでに遅れており
本体は過去に不在となり死する

本体は「痕跡」のみを残し、抹消され、ずっと不在となるかもしれない

かくして、この世界が現象することの根本には、差延がある
差延は現象を可能にするものであり、世界にその効果と痕跡を残す。
この痕跡は「エクリチュール(書かれたもの)」とも呼ばれる

なお、記号のうち現象するものは、反復するもの
三角形は他の誰かにも三角形として現象しており
それは私が最初に見る時も、すでに反復されたもの
なお、反復には、同じものの反復と、異なるものの反復がある

痕跡と散種について

世界が現象するためには、痕跡が読み取られなければならない
というのも、テクストの本体である「意味」の現象は、テクストの読みに由来するのだから

声や文字は痕跡。差延のもとで痕跡の本体は不在となるから
文字のテクストの本体である書き手も、テクストの外で不在化する

言い換えれば、テクストは書き手から切断され、一人歩きを始める

書き手が不在化するのであれば、テクストで書き手が言わんとしていたことは、書き手の支配から逃れることになる
そのため、テクストは誤読される運命にある

書き手の支配の外では、痕跡であるテクストの言いうること
テクストの読みは複数的になる
ただ一つの正しい読み方は存在しない
読みの正しさは、その読み自身から示されるしかない

このように、書くことが様々な読みの可能性をもたらすことを「散種」と言う

脱構築について

テクストである世界は、痕跡を介して複数の在り方で現象する
世界が別様でもありうることは、正当なものの力を奪い、解体させ、
より正当化できるものを構築する可能性を与える
この解体と構築を合わせて「脱構築」と言う

また、脱構築は、同じものの反復ではなく、
別様なもの、異なるものへの反復であるとも言える
ある現象を、既にそうあったものから、
別様なものへと送るのだから

脱構築はより良い世界の現象への努力でもある
世界はより良く、別様にも減少するのではないか、という
問いを立てることの自由、そのための、あらゆることを言う権利を
確保するのが「民主主義」

民主主義は、常に別様なものの可能性を保持しているため、
いつでも「来るべきもの」である
言い換えれば、脱構築には終わりがない

ところで、世界を別様のものではなく、同一のものへと
限りなく近づけることは、現象の安定性を確保する
しかし、これは別様のものへの通路を塞ぎ、生き埋めにし、抹消する暴力ともなり得る

故に、脱構築は別様なもの、未だ不在のものへの通路を確保し
その抹消に抗して、不在のものを全面的に肯定する
それは異なるものの反復の肯定でもある

この不在のものは、「メシア」とか「他者」とも呼ばれる
言い換えると、脱構築の正義とは他者の肯定

他者は有害なものであるかもしれないが
脱構築は危険を冒し、私自身を差し出してでも
他者への通路を確保し、他者を肯定する

それは他者への贈与であり、他者の「歓待」


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