エルンスト・カッシーラー

神話はもっぱらその客観の現前のうちに、ある瞬間にその客観が意識をとらえてこれを占有する強烈さのうちに生きているのである。したがって、そこには瞬間をそれ自身を越えて押し拡げ、その前後に目をやり、その瞬間を一つの特殊として現実の要素全体に関係づけるという可能性はない。現に与えられている特殊なものはすべて、それを他の特殊と結びつけ、他のものとともに系列化し、このようにしてついには出来事の普遍的な法則性に組み入れるための単なる機縁にすぎない、と見るような思考の弁証法的運動はここにはなく、あるのは印象そのものへの、その時どきの印象の「現在」への単なる献身である。意識はただ現にそこにあるものとしての印象にとらわれており、そこには、今ここに与えられているものを修正し、批判し、今与えられていない過去のものや未来のものに照らしてそれを測ることによって、それをその客観性に限定しようとする衝動も可能性もない。だが、このような媒介となるべき尺度が欠けており、あらゆる存在、あらゆる「真理」、あらゆる現実が内容の単なる現在に解消されるとすれば、それとともに必然的に、あらゆる現象するすべてのものがただ一つの平面に密集してしまうことになる。そこには実在性のさまざまな段階もなければ、客観的確実性のたがいに区別される段階もないことになる。このようにして生まれてくる実在像にはいわば奥行きが欠けており―経験‐科学的概念において「根拠」と「根拠づけられるもの」の分離としてきわめて特徴的な仕方でおこなわれる前景と後景の区別が欠けているのである。

エルンスト・カッシーラー「シンボル形式の哲学 2 神話的思考 岩波文庫
p87〜88

もし神話的意識の内容を外から反省するだけではなく、内からも理解しようとするならば、われわれは、経験的思考と批判的悟性が区別するさまざまな客観化の段階すべてのこうした未分化状態、こうした独特な混合状態を、つねに眼前に見すえていなければならない。

エルンスト・カッシーラー「シンボル形式の哲学 2 神話的思考 岩波文庫
p91

こうして、呪術的世界観においては、自我が現実に対してほとんど無制限な支配権を行使し、自我はすべての現実をおのれのうちに回収してしまう。だが、まさしくこの直接的な一‐体‐化にこそ、根源的関係が逆転することになる独自の弁証法もふくまれているのである。呪術的な世界観にあらわれているように思われる高揚された自我感情は、他面において、まさしくそれが真の自己になっていないということをも示しているのだ。自我は呪術的に万能な意志の力で事物を捉え、それを思いどおりにしようとする。だが、まさしくこの企てのうちで、自我が事物によってまだ完全に支配されており、まだ完全に「とりつかれて」いることが明らかになる。自我の行為と思われているものでさえも、今や自我にとって苦痛の一つの源となる。ここでは、言葉の力や語る力のような、自我の観念的な諸力でさえも、すべて悪霊的存在という形で捉えられ、自我とは無縁なものとして外部へ投射される。(中略)したがって、まさしく自我感情の増大した強度や、またそこからくる活動の肥大のうちで生みだされるのは、活動の幻影にすぎない。なぜなら、およそ活動の真の自由とは、ある内的な拘束を前提にし、活動の明確な客観的限界の承認を前提にするものだからである。自我がおのれ自身に到達するのは、おのれにこういった限界を設定し、はじめは事物の世界に帰していた無条件の因果性を次第に制限してゆくことによってでしかない。情動や意志が、もはや望まれた対象を直接捉えたり、おのれの圏域に引きこもうとしたりするのをやめ、単なる願望とその目標とのあいだに、次第に明確さの度合を高めて把握される中間項が入りこむことによって、一方では客体が、他方では自我がはじめて自立した固有の価値を獲得する。

エルンスト・カッシーラー「シンボル形式の哲学 2 神話的思考 岩波文庫
p299〜300

理論的思考は、それによって特定の綜合的結合にもたらされる諸項を、まさしくそのように結合されてはいてもそれぞれ自立した要素として保持し、それらを相互に関係づけながらも同時に分離し区別するのに対して、神話的思考にあっては、相互に関係づけられたもの、まるである呪術的な絆で一つにされたかのようにみなされるものは、無差別な一つの形象に溶けあってしまう。

エルンスト・カッシーラー「シンボル形式の哲学 2 神話的思考 岩波文庫
p342

したがって、宗教の理念性は、神話的な諸形象と諸力の全体を低次の秩序に属する存在に貶めるだけではなく、こういったかたちの否定を、感性的‐自然的存在の諸要素そのものにも向けるのである。

エルンスト・カッシーラー「シンボル形式の哲学 2 神話的思考 岩波文庫
p446

すべての存在――事物の存在も自我の存在も、内的世界の存在も外的世界の存在も――がその存立と意味をもつのは、この存在が宗教的過程とその中心とに関わりをもつそのかぎりにおいてなのだ、というこのことこそが宗教的思考の特性を示すものなのである。つまり、根本的には、この宗教的過程の中心だけが唯一の実在であって、他のいっさいのものはまったくの虚妄であるか、あるいはこの過程のなかの契機として派生的な存在、第二の秩序に属する存在をもつにすぎないか、そのいずれかなのである。

エルンスト・カッシーラー「シンボル形式の哲学 2 神話的思考 岩波文庫
p457

宗教哲学的見方は、神と人間との一体性を実体的なものとしてではなく、むしろ真の綜合的統一として、つまり異なるものの統一として考える。したがって、そこでは依然として分離が不可欠の動機であり、一体化達成のための条件である。(中略)この、神と人間との「融合」を却けることによって、弁証法的思想家であるプラトンは、神話も神秘思想もおこないえない厳しい切断を果たしたのである。(中略)ここで告知されているのは、(中略)神話を原理的に越え出るよう指示しているある新たな思考形式である。

エルンスト・カッシーラー「シンボル形式の哲学 2 神話的思考 岩波文庫
p465〜466


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?