こうして、呪術的世界観においては、自我が現実に対してほとんど無制限な支配権を行使し、自我はすべての現実をおのれのうちに回収してしまう。だが、まさしくこの直接的な一‐体‐化にこそ、根源的関係が逆転することになる独自の弁証法もふくまれているのである。呪術的な世界観にあらわれているように思われる高揚された自我感情は、他面において、まさしくそれが真の自己になっていないということをも示しているのだ。自我は呪術的に万能な意志の力で事物を捉え、それを思いどおりにしようとする。だが、まさしくこの企てのうちで、自我が事物によってまだ完全に支配されており、まだ完全に「とりつかれて」いることが明らかになる。自我の行為と思われているものでさえも、今や自我にとって苦痛の一つの源となる。ここでは、言葉の力や語る力のような、自我の観念的な諸力でさえも、すべて悪霊的存在という形で捉えられ、自我とは無縁なものとして外部へ投射される。(中略)したがって、まさしく自我感情の増大した強度や、またそこからくる活動の肥大のうちで生みだされるのは、活動の幻影にすぎない。なぜなら、およそ活動の真の自由とは、ある内的な拘束を前提にし、活動の明確な客観的限界の承認を前提にするものだからである。自我がおのれ自身に到達するのは、おのれにこういった限界を設定し、はじめは事物の世界に帰していた無条件の因果性を次第に制限してゆくことによってでしかない。情動や意志が、もはや望まれた対象を直接捉えたり、おのれの圏域に引きこもうとしたりするのをやめ、単なる願望とその目標とのあいだに、次第に明確さの度合を高めて把握される中間項が入りこむことによって、一方では客体が、他方では自我がはじめて自立した固有の価値を獲得する。