ヤーコプ・ベーメ(随時更新)

主著『アウローラ』『シグナトゥーラ・レールム』『大いなる神秘』『キリストへの道』

Godの顕現

ベーメの見たヴィジョンは万物の神的な実相とでもいうべきもの
我々人間はGodの歓びの調べをかなでる楽器の弦

無底…三位一体のGodの根源。他の何かによって根拠づけられず、また底がないので何かを根拠づけることもない。どこまで行っても何もない無

無底の中には他の「あるもの」を求める憧れがある
憧れは無限に広がっており、中心もなければ形もない
何もないのだから何も見ず、何も映さない。目でない目、鏡でない鏡

意志…憧れから外に向かっていこうとする運動

意志が無底の内に向かって収斂し、自分自身である無をつかむとき、無底のうちにかすかな底ができ、ここからすべてが始まる
意志は本質の駆動力であり、いかなる本質も意志なくしては生じない

意志は底に立つことで外に向かうことができるように
底ができることによって無底が無底となり、目が目となり、鏡が鏡となる
ベーメ「神ですら自己を認識するには神以外のものを必要とする」

「智慧の鏡(ソフィア)」…中心と円周が明確となることにより生じる

鏡は精神(ガイスト)を受けとめ、すべてを映すが、それ自体は何かを産むことのない受動的なもの
ソフィアは「受け入れるが産まない」という処女の性質をもつ無

無であるというのはソフィアが存在から自由なものだから
自由なるソフィアを見ようと意志は鏡をのぞきこみ、鏡に自分自身の姿を映す

ここで意志は欲望をおこし、イマギナチオ(想像)する
イマギナチオによって意志は孕み、精神としての神と被造物の原形が鏡において直観される

永遠の自然

これから神の欲求が外へと向かうことで世界が形成される
この後直接に我々が目にするような自然が創造されるのではない
可視的自然の根源たる永遠の自然

七つの霊もしくは性質によって万物が形成される
性質(Qual)とは苦(Qual)であり源泉(Quelle)
存在がさまざまなかたちに分かれ、性質をもつということは始元の融合からの乖離として苦である?

欲望 内側に引きこもる働き
 渋さ、堅さとも表現される欲望は、自分自身を引きずり込み、濃縮して闇に
 既に無底の内で働いていたこの原理は自然の第一の原理

流動性 外へ向かう運動
 欲望に抗して上昇、逃走しようとする
 この性質は『アウローラ』では甘さと呼ばれ、他では苦さと呼ばれる

不安 上の二つの力の張り合い

 内へ向かう力と外へ向かう力は互いに反発しあう
 一方が強くなれば他方も強まるので安定すしない
 相反する面が互いに運動する車輪の回転のようでもある
 不安の輪の回転は限りなくエセンチア(存在物、本性)を生み出す

以上の三つの原理は第一原理、万物の質料の源

熱、火花 闇を焼き尽くして光を生じさせる

 この原理によって前の第一原理の三性質、暗い火が明るい火へと転じ、死のうちから生命が現れる
 不安の輪の残酷な回転が結果的に火の鋭さ、そして輝かしい生命を生む

⑤光 熱から出たものでありながらも焼き尽くす破壊的な熱とは反対にやわらかく、優しい

 歓びと恵みの原理
 ここから五感(見、聞、感、味、嗅)が誕生
 愛に抱かれ、ここで統一された多様な力は再び外へ向かって広がりゆく

⑥ 響き、音、言葉 内にあったものがこの性質によって外へ顕わになり、語られる

 響きは認識を可能に、自然の理を明らかにして知と関係
 精神はここまで細分化しつつ展開してきたわけだが、理に至って自らの展開を十分に認識する

⑦これまで展開してきたものに形が与えられる

 ベーメにとっての世界の創造とは、Godの想像の働きが自己を展開してゆくこと
 その際否定的な要素が大きな役割を果たしている
 世界が生き生きとしたものになるためには障害が不可欠

堕落と救済

伝統的な神学上の問題
「完全な善であるGodが世界を創造したというならなぜ世界には悪が存在するのか」

ベーメの語るGodは純粋な善であるわけではなく、暗い面をも持っているが
直接にこの世の悪の原因となっているわけではない
可視的自然の創造以前に創造された天使の世界に悪の起源がある

天使は怒りの暗い火と愛の明るい火を精神の原理とするものとして創造された

怒りを愛に従わせることが善なのであるが、自由な意志にとっては逆も可能である。そして天使は自由な意志を持っていた。

ルシファーは自由をマイナス方向に向けて用いた

第一性質と第二性質には悪が潜在的に存在していたが、ルシファーはこの二つの性質に対し自らが神たらんとするイマギナチオを向けた

ルシファーのGodへの反逆はマイナスの創造として自由のエネルギーを逆流させ、闇の鏡をつくりだす

闇の鏡はソフィアの鏡と異なって多様な虚像を映し出す。これが空想

ルシファーは闇の鏡をのぞきこんで空想に踊らされ、ますますエゴを肥大化させる。かくして天使の国は怒りの暗い火が燃える地獄と明るい光の天国に分裂してしまう

ルシファーの闇の創造に対して再び光の創造が発動する

創世紀第一章「光あれ」がこの創造

ここで時間と空間、可視的自然、そして人間が創造される

アダムはGodの自己実現の最終到達点

その中にはすべてが見出され、天使にも勝る至高の存在

当初のアダムは男と女の両方の性質を合わせ持つ完全な統一体

やがてアダム堕落 神から愛され、自らも自らを愛する素晴らしきアダムを悪魔は手に入れたいと思った。悪魔はアダムを誘惑し、不完全なる多の世界にアダムの心を向かわせる。

アダムの堕落により彼の中の女性の部分である乙女ソフィアは天に帰ってしまった。それとともにアダムを中心として調和していた宇宙は統一を失って複雑な多の世界と化す。アダムは孤独となり、神はそれを憐れんで新たなる女性、エヴァを創造した。エヴァはソフィアの完全な代理とはなりえない。アダムはエヴァの中にソフィアを求め、男女はこうして惹かれ合うようになるものの、性によって苦しみもするのである。

だが、アダムの堕落はルシファーのそれと違う点がある。ルシファーが自らの自由意志で神に反逆したのに対し、アダムはそそのかされて罠に落ちたに過ぎない。そして人間は時間の中の存在である。時間には対立するものを調停する働きがあるので、人間の罪は許される可能性があるのだ。それに対しルシファーは永遠の存在であるため、罪が贖われるということがない。神は堕落した人間を救うため、救世主キリストを遣わす。キリストはエヴァのソフィア化である処女マリアから生まれたので、アダムが喪失した男性-女性の両極性を持っている。いわばキリストとは第二のアダムである。キリストは堕落のそもそもの原因である自由意志を放棄し、完全な受動性のもとに十字架にかけられる。この第二のアダムたるキリストに倣うことで我々は救われるとベーメは述べている。キリストの十字架を背負い、すすんで迫害や嘲笑に会い殺される[3]ことで、火も焼き尽くすことができない新しい人間として生まれることができるという。



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