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いたわり合い、乾杯。
お酒の席って人となりがでるなあと思う。
めちゃくちゃ立ち回りがいいあの子とか、ハイテンションで雰囲気を盛り上げるあの子とか、話に入れてない子にふっと話をふってくれるあの子とか、ここぞとばかりに先輩をいじりだす後輩とか、後輩のお酒を飲んでくれる優しい先輩とか。
楽しい空間をみんなで作り上げているような気がして、私はたいしてお酒は飲めないけどその空間が好きだった。大事な話とか深い話とかそういう話をするわけではないけれど、誰かが発した言葉に誰かが応えて連鎖していく度に、普段みんなが生きている生活を「いたわりあう」ような温かさを感じた。
飲み会をしたあの日も私はお酒に酔って千鳥足で優しい友達の肩を借りて駅まで向かった。また別の日も優しい誰かの肩を借りて眠る私がいる。そこに深い意味なんてないし、変に普段から生真面目に考え癖のある私はあえてそこに生産性のある時間だとか、効率的な時間の使い方を見いだしはしない。ただただ誰かの優しさや温かさに浸って人と人との繋がりを噛み締めている。
きっと人には誰かには言えないような苦労とか不安とかをそれぞれ抱えて生きているし、そうであることを自覚している。事実、私は私以外の誰かにはなれないし、その子の全てを知ったり、理解してあげたりすることには限界があると思う。
それでもお互いが心地の良い距離感で寄り添って、いたわりあって、その瞬間に日々の生活を忘れることができる瞬間が「乾杯」だと思う。
私たちが大人になっていくにつれて、保育園から一緒に成長していたあの子も今は私の知らない誰かと私とは違う人生を生きている。
だけど、そこで生まれるみんなの高まる体温や、それにともなって汗ばむ額、賑やかな笑い声の一体感は確かに私たちが一緒に過ごした時間である。
きっと私たちには社会がこれから先どう変化しようとも「人と人がいたわりあえる場所」が必要で、そこに意味なんてなくても尊い瞬間だ。一緒に同じ時間を過ごすこと、「乾杯」の言葉をかわすこと、そこでしか感じることのできない一体感の尊さをウイルスは教えてくれたように感じる。
またいつか「乾杯」の瞬間を迎えるときまで。笑顔で「乾杯」といえるときまで。
私は誰のものでもない自分の毎日を重ねていく。
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