日本語がどんどん変わる話の続き

これの続き

展示を一通り見て、それからずっと考えていたこと。
日本語のルーツがわからないのは、文字になった時にはすでに原型から言語が著しく変わっていたのだろうと言うこと。
それほど昔ではない過去に「言文一致」としないといけないほど乖離があったというのが論拠です。
だってさあ、江戸時代にラノベ的なもの(黄本)が存在して、そこですでに流行語がふんだんに取り入れられていたんだから、その時すでに隔たりがあったんでしょうよ。

で、日本語の誤りも何も…で思い出すのが、中学の国語(現代文?)の先生。
20代の若い先生で、年度の最初の授業か何かで
「ら抜き言葉」に怒ってるような年寄りはそのうち死ぬから!
みたいなことを言ってた。
つまり怒ってる年代がいなくなるまではそれでは点はあげられないから気をつけてねと言う文脈。
私は国語が得意だという自覚もあったし、「ら抜き言葉」は間違いだから正さねばという認識だったので先生がそういうことを言うのかとびっくりした。

でもまあ先生がそう言ってるし、ら抜き言葉がどうとかではなく日常では造語が次々産まれて、それをどれだけ使いこなせるかみたいなゲーム的な会話を繰り広げてて、もう「その日本語は間違ってます」とか指摘するのも意味がなく。
人が間違ってるのは気にしない、でも自分はらを抜かない。という信条でやってきたわけですが。

というか、あの時の国語の先生は「そういう」が「そうゆう」に、「延々と」が「永遠と」になっていってる現状をどう感じているのか気になります。

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