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言葉の影響によるコミュニケーションの難解さについて
言葉を話すとき、それは事実を伝えるだけではなく、相手に対して何らかの影響を持つ。例えば、隣にいる人に向かって「うるさい」と言うとき、あなたがうるさいという事実を言っているだけではない。そこには静かにしろという命令が含まれる。言語学でいうところの発話内行為である。この場合、相手が受ける影響は明確である。
ではふと「お腹減った」と言った場合はどうか。これは事実を言っただけかもしれない。しかし、例えば隣にいる人がチョコレートをくれるかもしれない。ご飯に誘われるかもしれない。これは、言った本人は意図していないものの、相手に影響を与え、ある行為を引き出している。言語学では、発話媒介行為というらしい。
少し話が変わるが、私はプライベートな関係において相手の自由意志を求めたがる。それが対等な関係であると思っている。しかし、一緒にいる時間が長くなるほど、言葉を重ねるほど、すべてではないにせよ、自分の発した言葉に相手がどう影響を受け、どう行動するのかがわかってくる。相手がこういう風に動くようスイッチを押すような発言になる。要するに、発話媒介行為が限りなく発話内行為に近づいてくる。そこには相手の自由意志が介在しない。それは対等な関係ではない。
さらに、伝えたいことがあるのに、伝えることによって相手が苦しんだり、将来に対して大きな損失になる結果が自明に見えるとき、八方塞がりになる。知ってほしいでも知るべきではない。
発話内行為を避け、発話媒介行為を求めるほどコミュニケーションがより難解になっていく。話しにくい関係になっていく。
そして、発話とは物理的に発した言葉だけではない。目線や口調や連絡頻度はもちろん発話であるが、連絡するかどうかもメッセージを含んでいる。
そうやって私が寡黙になってしまった相手が何人かいる。
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