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沖縄をめぐって

私をふくめて本土のひとが沖縄について語るとき踏まえておくべき前提が十分に共有されていないという問題意識があるので、とりあえず簡単に私論をまとめておくことにします。

沖縄は、日本本土とは異質な文化をもつ地域です。たとえば琉球語は、本土内部での方言差よりもはるかに大きい差異を本土のことばとの間にもっています。それでも沖縄は、歴史的経過のなかで日本の領域に組み込まれることになり、今でもまぎれもなく日本の領土です。簡単に歴史的経緯を述べれば、本来独自の王国があったところに薩摩が侵攻して日清両属となったのち、明治政府が中央集権体制の支配に組み入れ、そして日清戦争の結果として国境線が台湾海峡まで移動したことによって、この構図が確定した、ということになります。

日本の領土となったあとも、「方言札」や就職差別に象徴されるように、沖縄とその人々は不利な立場におかれました。太平洋戦争末期の沖縄戦は、その流れの中に位置づけられると思います。本土では陸上での戦闘が行われなかったのに対し、沖縄には米軍が上陸して激しい戦闘になりました。こうして日本が本土決戦を回避した、という言い方がなされるのは、沖縄が結局日本にとって獲得された地域であり、ある意味で植民地的な外部であるからです。戦争の結果、最終的に沖縄県民の4分の1が亡くなることになります。

戦後日本は事実上アメリカ一国の占領下におかれましたが、本土がじきに独立を回復したのに対し、沖縄は長期間占領され、その間「ブルドーザーと銃剣」によって住民は土地を追われて米軍基地がつくられました。「本土並み」がうたわれた沖縄復帰のあとも、沖縄は本土と比べて異様に重い基地負担を負わされています。本土における高度経済成長期に米軍統治のもとにあった沖縄には、いまだに本土との経済格差が残り、貧困も集中しています。

沖縄が被りつづけているこうした不利益は、沖縄が本土によって獲得された地域であるという歴史と、それがもたらす社会の構造に由来するのです。沖縄が本土に劣後させられる構造は一貫したもので、それこそが問題であるはずです。この構造的差別の存在を無視して沖縄を語ることは、許されないというか、まず不可能です。まずこの構造に自覚的であることが、本土の人々には求められると思います。

沖縄の民意は拮抗しています。例えば県知事選挙で辺野古移設反対派が勝ち、市長選挙では賛成派が勝つといったことがよくみられます。沖縄では基地に依存して経済生活を営む人も少なくなく、このことじたい構造的につくられたものではあるのですが、基地の存続を求める民意があることは重大です。同時に、騒音や米兵による暴行・殺害事件などの問題は、基地反対の民意もつくりだしています。不平等な日米地位協定のもとで、日本側は米兵が勤務中に起こした事件を捜査することができないことを指摘しておきます。

いくつか言っておきたいことがあります。まず、沖縄への基地の集中は、その地政学的重要性で説明できこそすれ、正当化はできないということ。たとえば海兵隊が沖縄に置かれ続けている目的の一端には本土を守ることがあると思いますが、それなら本土が一部を負担すべきであるはずで、沖縄ばかりに負担を押し付ける正当性はどこにもありません。

それから、本土と沖縄の経済格差や教育格差はきわめて深刻であり、なおかつ構造的であるということ。高度経済成長期を奪われ、代わりに基地中心の産業構造がつくりだされた沖縄の経済状態はいまだに悪く、日本国内で最悪といえる貧困の状況があります。戦前の日本が沖縄に高校や大学を作らず、占領期にアメリカがはじめて琉球大学を作った経緯からいえば、教育環境も本土と比較して伝統的に不十分です。個人的な感覚を吐露すれば、本土の人間が琉球大学の偏差値を嘲笑することがどれだけ醜悪かと思います。

さらに、こうした構造の存在は、イデオロギーによらずに認識されるべきであること。沖縄に関する議論は、すぐに旧来の軍拡対非武装の対立軸で捕捉しようとされてしまいますが、問題の所在はそこではないと思います。沖縄の基地負担を軽減しようとすることイコール非武装中立論ではない。日米同盟を擁護することばは負担の偏りとそれをもたらす構造的差別を是認する力ではない。オール沖縄は基地一掃など掲げていません。基地のある地域への適切な補償を前提として、その先に主張されるのは、沖縄の人々の声が傾聴され、民主的に意思決定がなされるべきであるということ、そして負担は公平化されるべきであるということ、これらの明快な正義であるはずです。

国益ということばが用いられるとき、それが誰の利益なのかはしばしば不明確です。国は法人にすぎず、国民ひとりひとりの利害は異なっていて、ときに対立します。日本政府をふくめた本土の人々が、沖縄の人々が不平等に対して上げる声を無視しつづければ、本土と沖縄の利害は明確に衝突するようになるかもしれません。そのとき、沖縄の人々は「愛国心」に欠けているとか、中国共産党の手先だとか非難しても何の意味もありません。沖縄ナショナリズムが日本人としての意識を超えるとき、沖縄の負担に依存したいまの安全保障体制の基礎は大きく揺らぐでしょう。私たち本土の人間の身振りは、自らの生存にとっても重大であるはずです。


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