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愛することと愛されること。それぞれのリミット

愛することにリミットがないのは、経験から知っています。

少なくとも私は、自分の中に一定量の愛があって、例えば子供が増えたらそれを分配するのではなく、愛する対象が増えれば、ちゃんと愛も増えるのです。昔、第一子を授かって1年くらいの時に、

「もっと子供が欲しいのだけれど、あまりに長女が愛おしいので、次の子供をここまで愛せるかどうか自信がない」

と、元夫が半ば人生相談のような口調で私に言ったことがありました。彼は3人男兄弟の末っ子で、元義両親は女の子を心から望み、女の子の名前しか用意しておらず、産まれた元夫が男の子であったことに非常にがっかりしたそうです。だから、あまり親の愛情を受けて育たなかったんだというのが元夫の認識ですが、その信ぴょう性はここでは省きます。

「もっと子供が欲しいのだけれど、あまりに長女が愛おしいので、次の子供をここまで愛せるかどうか自信がない」と言われた時、私は何の根拠もなく、でも心からの確信をもって

「そんなこと心配しなくて大丈夫。愛は、愛する対象が増えればそれに応じてどんどん増えて広がるから、定量を分配するようなことにはならないよ」

と答え、その数年後に第二子を抱いた彼は

「あの時きみが言ったことは本当だった。愛の高さ、間口、奥行きがどーんど広がったのを実感してる」

と言いました。愛することはとても利己的な感情であり、それがどんどん増幅してゆく様を物体として想像すると、そこには美しさより恐怖を感じるのですが、とにかく愛するとはそういう事なのだというのが、私の認識です。

一方で、愛されることはどうなのでしょうか。

誰かからの愛が重すぎて辛い、というのは、誰からも愛されなくて辛い、という感覚とは、おそらくマグニチュードが異なるものなのだろうと想像はできますが、か。それが、期待やエゴの影法師ではなく、キワ・ヒルスタくらいには希少な「真実の愛」であったなら、愛を注がれる対象の感じ方もまた、違うものになるのだろうか。コップから水があふれるように一定量以上の愛がこぼれていくのではなく、コップのサイズ自体が大きくなるのだと信じたいけれど、わからない。

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