見出し画像

枝豆を食べる時。

 黒豆になる前に枝豆として収穫した。おばあちゃんとお母さんと3世代で、物置の中で枝豆を枝からもくもくともいだ。

 「これは黒豆の枝豆だから美味しいよ」とお母さんが言った。

「枝豆って大豆じゃないの?」と、聞くと黒豆は大豆の一種だと教えてくれた。「黒豆になる豆の方が、枝豆も美味しいよ。毛もちょっと茶色いでしょ?」、枝豆の表面の毛を見せながらお母さんが言う。おばあちゃんはもう目が悪いから、この毛どころか、枝豆もしっかり見えてないみたいだけど、何十年とやってきた感覚をもとに枝豆を黙々と違っては、新聞紙の上に置いていた。新聞紙からあぶれた枝豆が、おばあちゃんの目の悪さを示していた。

 持ってきた大きな紙袋がパンパンになるほど枝豆をちぎったけど、孫(わたしにとってはいとこ)が、このあと来るからと畑に行き、今度は畑の中で枝豆を収穫した。畑の周りは何もなく、今スマホがある時代ということを忘れる時間だった。時間がゆっくりと流れて、黙々と枝豆をちぎっては袋に入れ、小さすぎる枝豆とちぎり終わった枝はそのまま畑に捨て、たんたんと目の前の豆だけに女3人、向き合った。

 これが人間の本来の姿なのかもしれない。男がいない中、淡々と家のことをこなす。食べるために取る。取ったものは、数日間食卓に並ぶ。なくなったらまた畑から取ってくる。生きるとはシンプルなことだ。

 女が家のことをするということは、私にとって認めたくない事象である。(現実と書くか、事実と書くか悩んで事象という言葉を選んだ)時代と立場と個人は違えど、私たち3人は女という立場に苦められた人間だと思う。

 ただ、その時私は女であることを自然と受け入れることができた。私という個人から、にんげんに、どうぶつに還り、地球の中の一生物として淡々に地球の歴史の中の一部となった。

 一人暮らしの家に帰り、また日常へと戻る。スマホを使い、仕事をし、私個人を生きる。枝豆を食べる時を除いては。