犯罪に肯定される半生。

 半生というには、私は若いかもしれないけれど、私の人生について少し書きたい内容がある。

 小さい頃、私はよく怒られた。落ち着きのない子供だったので、幼稚園での記憶は楽しいものより、ほぼ怒られているものだった。怒られることが多かった私は、【怒られたくない】という気持ちが誰よりも強かった。

小学校にあがり、怒られることは減った。親が教員をやっていたこともあり、教師の気持ちはよく理解ができた。どのように立ち振る舞い、どのように行動すれば教員が助かるか、望む行動かはわかった。だから、私は怒られないために常に正しいと言われる行動をしていた。

 もちろん、なぜ怒られる行為をしてはいけないかは理解していたし、正しい行動がなぜ正しいかも分かっていたけど、私は正しい行動をすることよりも【怒られない行動】をすることを優先していた。それは結果としてイコールなんだけど。 

 中学に上がる頃、思春期や反抗期を迎えた友人たちは小学生の頃と変わっていった。先生に刃向かったり、授業をボイコットしたり、さまざまな校則違反をした。不良の生徒でなくても、どの生徒も少しは校則違反をしていた。合唱コンクールでは、歌わない生徒がほとんどだったし、逆に一生懸命歌う生徒や、がんばろうという生徒は多くの生徒から邪険にされてきた。

 私は邪険にされる側だった。行事には素直に取り組んだ、授業では挙手をした。クラス委員や生徒会も取り組んだ。正しいことをしていると思っていた。規則を破らないことが正しいのに、なぜみんながわざわざルールを破り、先生に怒られ、それを楽しんでいるかがわからなかった。

 もちろん、規則を破らない理由は【怒られたくない】からだった。親が教員をしていて、自分の学校の先生とも同僚であった過去や、友人関係にあったことも多少は関係していたかもしれない。

 辛くなかったわけではない。正しいことを言っても、自分が間違っていないと分かっていても、嫌われたり、うざがられたりした。当然友人も少なかった。ただ、私の中では、規則を破ってみんなで一体感を楽しんだり、クラスメイトと仲良くするよりも【怒られない】ことが優先だったのだ。

 正しいことをして、結果私は友人が少なかった。もちろん、正しい行動をする理由がやましいので、正しいことをするのに若干の後ろめたさや、孤独感はあった。

 規則違反をする子はほとんどいない高校に進学したことや、自由な校風で常識の範囲程度でなら、どんな行動をしても許容してくれる教師がいたこともあり、わたしはあーたんとしての人生を歩み始めた。

 冗談を言い、ふざけたりもする。規則を破るなくても疎外感を感じずに生活できる高校は本当に楽しかった。一方で、中学以前のことを聞かれるのは苦手だった。高校の私も、中学の私も中身は同じで、でも人に与える印象や学校での立ち振る舞いは大きく違った。この生活の中で、【怒られる】からではなく、確かな理由を持ってやってはいけないことはある。やはり、規則は守らねばならいと思うようになった。少しだけ、自分が好きになった時期でもあった。

 中学以前の自分のことを聞かれるのは嫌いだった。コンプレックスだったのだ。幼少期のトラウマの反動とはいえ、どうしても規則が破れなかった自分や、周りとうまく関わらなかった自分が嫌いだった。ここまで長々と書いたのは、中学までの友達がいなかった言い訳をしたいだけなんだなぁ、と今も書きながら思っている。

 コンプレックスは続く。

 社会人になった。コンプレックスを抱えたまま、私は社会の一員として生きている。 

 こんなニュースを見た【大学生の相次ぐ給付金不正受給】。

 自分の身近な大学名もあった。それを見て、私は救われた気持ちになった。他のニュースでは何も感じなかったのに、このニュースに強く惹かれたのは、彼らの歳が近いことのほかに、インスタのストーリでこんな内容が回ってきたからだろう。

『コロナで困ってる人、連絡ください。お金が手に入る方法があります』

 かつての同級生ストーリーだった。その時既に逮捕こそまだなかったものの不正受給の手段や、それに手をつける若者の話をSNSを通じてみていた。だからより、その犯罪を身近に感じた。その同級生が、不正受給の斡旋や、そのような行為をしていたかは定かではないし私にわかる術はない。ただ、少なくはない若者が、ずるずると知らぬ間に犯罪に手を染めていったことだけは事実としてある。

 少しくらいズルをしてもいいだろう。みんなやっていることだから。 

 そういう気持ちで、彼らは犯罪と思わずに規律を破ったのかもしれない。

 中学の時の彼らもまた、同じ気持ちだったのではないだろうか。少しくらい校則を破ってもいいだろう。みんなやっていることだから。

 中学生の時、仲間の輪からあぶれた私は、今の事件と過去の自分を重ねる。不正受給の手段を見てもやろうと思わなかった自分。やってしまった歳の高い若者たち。当然だが、過去に校則を破っていても今はルールを守る大人になった同級生もたくさんいる。だけど、一貫してルールを守った自分がいたから、そんなルール違反に違和感を持ち、やってはいけないことをやらなかった自分がいるのではないか。悪いことをしたら、やはり罰を受けるものなのだ。だから、悪いことをしなかった自分は正しかったんだ。すこし、過去の自分を肯定できた気がした。

 自分はまだまだだなと思った。 

 罰を受ける人間を見て、自分を正しいと認識する【怒られること】を恐れていた過去の自分と、何ら変わらない自分がそこにはいた。

 本当の意味で、過去の考え方と決別するのはいつだろう。もう少し、精神が習熟したから来るのかもしれない。そうしたら、自分を愛せる気がする。


 駄文だな。言いたいことの1割もかけてない気がするけど、書いたものは全て公開するので今回も公開しよう。(これも言い訳だな)