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切なさや儚さに押しつぶされないように

理由も無く、ただ涙がぽたぽた流れ落ち、呆然と立ち尽くす瞬間がたまに訪れる。嬉しいのか悲しいのか、自分でもよく分からない。閉じ込めていた感情、心の奥の奥にある柔らかくて脆いものが放出する瞬間。

いつも元気なあの人の弾けるような笑顔、
ご飯を頬張るあの子の様子、
そんな場面で目を細めるあの人の眼差し、
「大丈夫だよ」と呟いて握りしめてくれた手の温かさ。
こんな瞬間に触れると、胸がぎゅっと締め付けられる。

その人がその人らしく、ありのままでいること。
誰かが誰かを思う気持ち。
見返りなんて必要としない無条件の愛と信頼。
わたしは、そんなものにめっぽう弱くて、受け取ったあとも自分のなかで熟成され、ふと思い出したときに泣けてきてしまう。

わたしはそれくらい、周りの人から揺らぐことのない愛や些細な思いやりをたくさんもらってきた。むしろわたしはそれだけで生きてきたのではないかという自負があるくらいだ。こうした周囲の優しいまなざしがなければ、わたしはきっとすぐにポシャっと崩れ落ちてしまうような人間なんだと思う。

Photo by taketaketj

前置きが長くなりました。初めまして。2023年4月からPIECESのスタッフとしてジョインしました西角綾夏です。

PIECESに惹かれる理由は冒頭だけで十分なのではないかとも思うけど、今回わたしの自己紹介とPIECESにジョインした胸の内を、綴ってみようと思います。

◆◆◆◆

どこから自己紹介をしようかと、遡ったときに浮かんできたのは、大学2年生の頃。やりたいことを見つけて好きなことをしなければ!と一種の強迫観念に駆られていた時期に、小学校の心の相談員をしていた母が話してくれた、一人の女の子の話に涙が止まらなくなったことがあった。必要以上に大人びて、子どもらしさを失われている様子が自分と同化したのだ。

あのときからわたしの取り組みには「子ども」がずっと軸にある。なぜ「子ども」にこだわるのか、その理由は今もはっきりしない。子どもも大人も、一人の人間であることに変わりはないし、年齢で区別をつけたくもない。
だけど、物心つくかつかないか、その人の根っこが形成される時期には興味があるし、自分は自分で大丈夫なんだと思えるような、人の優しさに触れるのは早いに越したことはない気がするのだ。

その後わたしは教育学部を卒業し、教育ってそもそもなんだろう?という探究をするために大学院で教育哲学を学んだ。大学院時代に、子どもの心の孤立を防ぐ“子どもと大人のバディプログラム”を運営するWe are Buddiesに出会い、その事務局としてかかわることで、どんどんのめり込んでいった。大学院卒業前には、新宿の一軒家「れもんハウス」で住み開きをして、子ども・親子のショートステイを行うなどした。このどちらもが今でも自分を形成する一部だ。このふたつの活動を通して、いろんな子どもたちに出会ってきた。

心がギュッと固まっている子どもや、スポンジのように見たもの感じたものを吸収していく子ども。どんな子どもにも、「自分だけを見つめてもらえた」という時間はなくてはならないもの。それがほんの一瞬でも、何気ない仕草でも、その子の心には一生残る。子どもたちとの付き合いが長くなってくると、わたしも忘れていたような些細な出来事が、その子の心には刻まれていたのだと、実感することも増えてきた。

この一瞬があればこの子は大丈夫だ、と思う反面、この子の人生に自分が刻まれていることが少しだけ怖くもなったりする。人は勝手に育つのだけど、人生のお守りのような瞬間に自分が刻まれていることの、尊さとその重みに、ちょっとひるんだり、自分の心がいっぱいになって苦しくなったりもする。

わたしのことなんか思い出さなくたっていい、
恩や感謝なんて感じなくていい。
ただ、そのままでいてほしい。
自分は大丈夫だって思えてくれたらいいな。そんなことを願う。


でもこれはきれいごとかもしれない。自分のことを大丈夫だって思えるような、強い人はそんなにたくさんはいないし、不確実で理不尽で傷つくことも多いのが人生だろう。そんなときに、思い浮かぶ何かがあることは、やっぱり大切だ。

自分がこれまで受け取ってきたものに気付き、その記憶に触れることは、どん底から這い上がるきっかけになる。ただ、その一方で、受け取ってしまったものの重みに押しつぶされそうになったり、簡単に自分の人生を諦められなくなるという別の苦しみも生まれるかもしれない。その人がどれだけ自分のことを思ってくれていたのかと胸がいっぱいになりながら、なにか恩返しをしたいと思うけど、自分にできることはそこまでなくて自分のちっぽけさに落ち込んだりもする。誰かを思うことって、ややこしくて複雑だ。

それでも、誰とも交わらず、悲観と諦めの無機質な世界だけで終わってはもったいない。どうせ苦しむなら、目に映る世界の色鮮やかさや温度を感じながら足掻いてみることを選べたらいいのでは、と何周か回ってようやく自分の考えが結局ここに落ち着く。

発する言葉はなくてもただ傍にいること、目があったら微笑んでくれたこと、もらった言葉、まなざし、あの温もり。
愛や優しさという目に見えないものが秘める力が、もっともっと広がったらいい。

きっと、わたしはその一端を自分が担うことには、迷いや葛藤を抱き続ける。そして、誰かと誰かが交わる温かさや、心が柔らかくむき出しになった瞬間に、愛しさと切なさでいっぱいになるかもしれない。そしてきっと、そんなふうに受け取りすぎる自分のことを面倒くさいな、と思う。切なすぎて苦しいなんて贅沢な悩みだ。でも、もうそれは仕方がない。わたしはそれくらい温かくて優しい世界線に呼応するように生きている。

これまではその世界線に守られて、ぬくぬくと生きてきた。だけど、そんなことが通用しない世界線もまだきっとあるし、そんな世界を知らなかったり、そんなのおとぎ話だと目をつむって、もがいている人がたくさんいる。自分の望む世界線を広げるために、必要なことは、自分自身の在り方を問うこと、小さなところから行動していくこと。異なる世界線にいる人とも接点を持ち、自分ができることを試し、そこで自分自身をどう健やかに保っていけるのかを問い続ける。
PIECESにジョインしたのは、自分にどんな在り方ができるかを探求するチャレンジです。

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