社会の問題や関心ごとは、いかにして自分ごとになるのか?:「選挙」を巡って

今回、共通の問いを巡ってそれぞれで書こうということになった。それぞれから問いを提案し合った。結局、ぼくが提案した問いに決まったわけだが、これが全く厄介であり、少し後悔すらしている。その問いは次の問いである。

自分の外にある、社会の問題ないし関心ごとは、いかにして自分ごとになるのか?(そもそも自分ごとにする必要はあるのか?)

この問いを提案してみたのは、昨今のロシア−ウクライナ事情や参議院選挙は、言うまでなく、社会の問題ないし関心ごとであろうが、私を含め、それらが自分ごととなっているとは思えないからであったが、我ながら本当に厄介な問いである。正直なところ、着手したくないのだが、それでも提案した本人が書かない、ということもできず、こうして書いている。とにかくこの課題に私はケリをつけなければならない。

最初に断っておきたいのだが、もし「自分の外にある社会の問題ないし関心ごとは、いかにして自分ごとになるのか?」というこの問いを大真面目に提起してくる人間がいるとしたら、私はそいつを非常に厄介な人間であると思ってしまうということだ。そして必ずや最初の反応として、この人間を少なからず敬遠してしまうだろう。次いですぐさま「こいつは本音のところではこの人間はこの問いをめぐって思考することを欲していないのではないか」という疑念を持つだろう。例えば、仕事柄でこのようなことを考えないとやっていけない、とか、いわば社会的な立場ないし立ち位置の関係で強制されて、この問いを提起してきているのであり、こいつ自身が考えたい問いではないのだろう、と思うわけだ。(そういうわけで、私は、自分でこの問いを提案しておきながら、すぐさま括弧付きで「そもそも自分ごとにする必要があるのか?」と付け加えるよう強いられた)

ところで、なぜこのような第一印象を抱くのか。何かきな臭いのだ。根拠はいまだなく、ほとんど感覚的にそう感じる。生理的に受け付けないような何かを含んでいる問いに思えてならない。この問いには、何やら「引っ張り出そうとする力」を感じる。「引きこもっていないで、ちゃんと向き合え」と言わんばかりの力を感じる。そして当然のこと、そいつは、自分が正しくて、相手が間違っている、と思っているだろう。「間違っている」とは言えないにせよ、少なくとも、自分のあり方の方が正しい、と思っている。もちろん相手側の気持ちに寄り添うそぶりは見せるだろうが、結局のところ、「いくら言ってても仕方がないんだよ、自分ごとにしていくしかないんだよ、早く大人になれよ」というようなそんな気概を感じる。そしてこうしてふと思うのだ。この最後のセリフは、相手に言っているように見えて、自分に言い聞かせているのではないか、と。要するに、「いくら言ってても仕方がないのかもしれない、自分ごとにしていくしかないのかもしれない」と少しの疑念を思っている自分自身に言い聞かせて、それをできることを「大人になれよ」というくだらない決まり文句で納得させようとしているのだ。そんな気持ちの悪い力を感じる。そしてそいつはその気持ち悪さに相手を巻き込もうとしている。だから生理的に受け付けないというのは二重の意味がある。一つは、そいつが誘い込もうとしている領域が何か淀んだ池のように感じられる、ということ、もう一つは、そいつ自身が善人の仮面をつけた欺瞞者のように見える、ということである。

というわけで、私はこの問いを大真面目に発してくるキャラクターを「淀んだ池に棲みつく欺瞞者くん」、長いので略して「欺瞞くん」と呼んでおこう。そしてこの欺瞞くんを相手にして対話形式で書いてみよう。

・欺瞞くんとの対話

欺瞞くん:「自分の外にある、社会の問題や関心ごとは、いかにして自分ごとになるだろうか?」、君はどう思う?

私:え、いやまず、欺瞞くんはどう思うの?

欺瞞くん:うーん、そうだなぁ。なかなか難しいよね。社会の問題ってパッと浮かぶものが大きい問題過ぎるし、数も多すぎて、どこから手をつければいいか、わからないし。例えば、戦争とか孤児とか気候変動とか言われても、正直自分がそもそもその問題の解決に何かできることがあるんだろうか、とも思ってしまうよ。

私:うん、まぁ、確かに。じゃあ、考えてなくてもいいんじゃない?

欺瞞くん:え、いや、それはダメでしょ。

私:なんで?

欺瞞くん:なんで…、なんでだろう、考えたことなかった。

私:おー、じゃあまず、そっちを考えてみるのもいいんじゃない?

欺瞞くん:え、いや、え?いや、それは考えなくていいんじゃないかな…

私:なんで?なんで欺瞞くんが持ってきた問いは考えないとダメで、なんでおれがいま出した問いは考えなくていいの?

欺瞞くん:え、ちょっと待って、混乱してきた。君はいまどんな問いを出したっけ?

私:おれがいま出した問いは二つある。一つは、欺瞞くんが持ってきた問いを考えないで済ませるのはなんでダメか、もう一つはそのダメな理由を考えなくていい、と欺瞞くんが思うのはなぜか、だよ。

欺瞞くん:わかった。とりあえずまぁ、じゃあ答えてみるけど、全然まとまってないかも。

私:いいよ、全然。

欺瞞くん:ありがとう。じゃあ、まず一つ目だけど「社会の問題や関心ごとを自分ごとにするにはどうしたら?」って問いを考えないで済ませるのがダメなのは、えーっと…それは…あれ、なんでダメなんだ?

私:うん、なんでだろう。

欺瞞くん:うーん…なんか、こう印象よくないじゃない?

私:はぁ。印象がよくない。

欺瞞くん:うん、なんだろう、自分ごとにしている人の方がさ、なんかこうすごいじゃない?なんだろう、うーん。あ、逆にさ、自分ごとにしていない人ってさ、自分のことしか考えてないみたいで、なんか印象悪くない?

私:あー、なんかわからないでもないけど、でも、その「すごい」人ってさ、「自分ごととして」考えているわけで、それって結局、自分のことを考えているんじゃないの?

欺瞞くん:あー、えー、いや、でもその、すごい人バージョンの「自分のことを考えている」って、ちょっとなんか違くない?

私:まぁ、違うかも。たぶん、そのすごい人はさ、その一見、自分とは関係ないように思えることを自分に関係していることだとわかった上で、自分のことを考えているからかもね。

欺瞞くん:そうそう。だから、その人はすごいんだよ。実は自分と関係しているってことを知っているからすごいんだよ。

私:うん、そうかもしれない。で、いま確認だけど、その場合「自分ごとにする」っていうのは、自分の外にある社会の問題とか関心が「実は自分と関係あるってことを知っている」って意味でよい?

欺瞞くん:うん、そうだと思う。そうそう。「実は自分と関係あるってことを知る」ってのが大事。だから自分ごとにした方いいし、「どうしたらそうなるか」を考えないとダメなんだよ。

私:うん、おっけー。じゃあさ、例えば「選挙」ってあるけどさ、選挙行かない人がいてもさ、それは別に必ずしも悪くないってことだよね?

欺瞞くん:え、なんで?

私:いや、だってさ、もしその人が選挙が自分と関係があることを知った上で、行っていないならば、それは自分ごとになっているよね?

欺瞞くん:あ、え、いや、あ。うん、そ、そう、そうかも。

私:うん、そうだよね。でもこれだと、欺瞞くん、なんか変な感じを感じるよね?

欺瞞くん:うん、なんか、うん、そう。なんか変な感じがする。自分ごとになった結果、もし誰もその問題に対して実際的にコミットしない、となると、なんか変な感じがする。

私:いや、コミットはしているんだよ。自分ごとにした上で、つまりそれが実は自分と関係があると知った上で、なお、「選挙に行かない」というのは選択なんだよ。「立候補者のうちの一人を選択する」ということと同じように、「選挙に行くのか、行かないのか」も一つの選択だよ。

欺瞞くん:えー、いや、まぁ、確かにそうなんだけど、なんか話が変わってきちゃうよ。

私:ん?

欺瞞くん:いやいや、だって、最初の問いは「どうしたら自分ごとになるか」だけど、「自分ごとになった」結果がそれだとなんか変だよ。

私:何が変だろう?問いは最初より正確になっているよね?

欺瞞くん:正確?

私:だって、「自分ごとになる」っていう問いの中の一つの言葉の意味が前よりはっきりしたわけじゃない?「実は自分と関係あるってことを知る」っていう意味で。

欺瞞くん:いや、まぁ、確かにそれはそうなんだけど、自分ごとになった結果が、「選挙に行かない」って選択になっちゃうと、「いかにして自分ごとにするか?」っていうそもそもの最初の問いの意味がなくなっちゃう気がする。

私:じゃあ、「選挙」をこのままに例と取るとして、もっと直接的な形にするとしたら、問いはどう変わる?

欺瞞くん:問いは、だから、えーっと。あー、だから、問いは「どうしたら選挙に来ない人が来るようになるか?」だよ。

私:あー、それなら簡単じゃない?例えば、選挙に来ないと「牢屋に入れられる」とか「犯罪者扱いされる」とか「めちゃめちゃ罰金払わないといけない」とかなんか色々ありそうだけど?

欺瞞くん:いやいや、そういうのはダメだよ。

私:なんで?選挙に来させたいんでしょ?

欺瞞くん:いやあの、無理やりじゃなくて、自発的に来てもらわないといけないんだよ。

私:要するに「洗脳する」ってこと?

欺瞞くん:えぇ、いや、え?なに?

私:いや、だって、本音は「来させたい」んでしょ。だけど、あくまで「自発的に来た」ってことになってて欲しいんでしょ?で、元々その人は「行かない人」だったりするわけなんだから、その人の頭の中に「行かないといけない」っていう強迫観念、あー、強迫観念というか、とにかく「行きたい」って思わせたいんでしょ?それって「洗脳」と何が違うの?「お国のために」と思ったり言うようにさせて、出兵させることとかと何が違うの?

欺瞞くん:いやいや、え、これは洗脳じゃないよ。

私:だから、なんで?

欺瞞くん:いや、え…

私:ひとの考え方を自分が望む方向のものに計画的に変えるっていうのは、多かれ少なかれ洗脳だと思うけどな。「有名人がそう言っているから」「そうしないと周りの印象が悪いから」って、そういうふうに袋小路に追い詰めて、考え方が変わったところで、「それでいいんですよ」「大人になったね」とでも褒めてあげて、その人に「これでいいんだ!」って思わせる流れで、洗脳じゃあないものなんてあるのかなぁ。

欺瞞くん:いやー、えー…

私:ちなみにだけど、別にぼくは洗脳でもいいと思う。確かに言葉がイメージが悪いせいで、欺瞞くんはすぐに受け入れられないのかもしれないけれど、ぼくは洗脳でもいいと思う。それよりも、ぼくが疑問に思うのは、本当のところやっていることは「洗脳」なのに、つまりこの場合、選挙に行かない人間を選挙に行きたくなるような人間に変えたい、それを強制的にじゃなくて、自分から勝手にそう思うように洗脳したいってことなのに、なぜそれを欺瞞くん自身が受け入れられないように感じているか、ということの方だよ。で、ぼくは、あー、これはあくまでもぼくの仮説だから、慎重に聞いて欲しいんだけど、もしかしたら、欺瞞くんは、本当は選挙が絶対的に必要だと思う自分なりの理由、そういった信念を持っていないんじゃないの?だって、もしそれがあるならば、「洗脳って呼ばれようがなんだっていい、でもこれこれこうで、絶対に選挙が必要なんだ。ぼくは絶対にみんなに選挙に来て欲しいんだ」って言えるんじゃないの?そしてそれはさ、もう逆に洗脳じゃないよ。一つの「叫び」だよ。その「叫び」にこそひとは聞く耳を持つとぼくは思う。遠回りにうまいこと洗脳しようとするより、その方がよっぽどいいし、それこそ民主主義的だとぼくは思う。そして細かいことだけど、「選挙に行ってほしい」から「選挙に来て欲しい」というこの変化はとてつもなく大きいものだと思う。で、まぁ、ぼくはそう思うけど、どう?

欺瞞くん:………。わからない、正直、わからなくなってきた。だけどなんか言っていることはわかる。なんだろう……でもいま、何かもう答えが出せない。混乱しているよ。

私:そうか、まぁ、一気に言い過ぎたかもしれない。ただ最後に一言だけ言わせて欲しいのは、「考える」っていうのは、いまやってきたようなことだとぼくは思っている。ぼくも最初は自分が何が言いたいかわからなかったし、この話がどこに行くのかもまったくわからなかった。でも、ぼくらはその道すがら、少なからず、一つの共通のコンセプションに辿りついた。「自分ごとにする」って言葉の意味を自分たちで掴んだ。そしてそれによってここまで来れた気がする。一個一個やっていくしかない。確かなものを、自分たちにとって確かなものを掴んでいくしかない。そうでないと一緒に進めない。また振り出しに戻るようなことも許容することを前提に話し合わないといけない。そうじゃないと一緒に進めない。まったく予見できず、どこにいきつかわからないからって、一緒に進むことを諦めて、以前から風習に従って、その上で誰かが誰かを洗脳することを始めるならば、そしてそれがさも当たり前のように進んでいってしまうならば、それは本当に民主主義なのだろうか。

欺瞞くん:そうかもしれない。君が言っていることすべてにまだ全然納得できないし、混乱しているけど、いま君が「一緒に進みたい」って言っていることはわかったし、ぼくもそれに賛成だ。ぼくは今日の例だと、選挙に行くことが一緒に進むことだと思い込んでいた。だけど、今日ぼくらは選挙をしていない。でも、一緒に進んでいる気がする。他の道があるのかもしれない。そんな中でなんで選挙が絶対に必要だ、と思っていないなら、そこからは全部洗脳になってしまうのでは、とすら思い始めてしまった。そして、そんな道でも、そんなふうに戻ることすら一緒にやろうと言い合えないならば、もう一緒にはぼくらは進んでいない。ぼくも、一緒に進みたい、と思う。それがいま最後にぼくらが共通に掴み始めている、君が言うところ、ぼくらにとって確かなコンセプションなように思う。

・欺瞞くんとの対話を終えて

とりあえず、今回は十分ではないか、と思っている。

一連を振り返ると、まずもって興味深かったのとは、問い自体が途中で変わってしまった、ということだ。そして問いが変化した後の、より直接的な問いを発する者は、その実、その本音において「洗脳する」という欲望を暗黙的に保持していた、ということである。そしておそらくこれは最初の問いの段階から潜んでいた。ここでの対話はその暗黙的な欲望を暴き出したのであり、最後に、その問いを発してた者自身(欺瞞くん)がその隠れら自らの欲望を自覚した上で、拒否する先に、一つの「叫び」が現れる可能性が示唆された。そしてまたその叫びこそが、一種の真の協働(一緒に進むこと)を可能にするのではないかが示唆され、二者間でその協働可能性への同意が得られたところで、対話が一旦中断されることとなった。

以上をもって、今回は終わりにしよう。なんとなくだが、賛否両論もあるかもしれないが、一旦、今回の課題は「中断」という形ではあるが、ケリをつけられたと思う。


喫茶店代か学術書の購入代に変わります。