愛情乞食『高橋和巳全集 5』467頁

西村は、一度、古在といっしょに見舞った岡屋敷のことを思った。彼の病室に影をおとしていた棕櫚の葉影が異様に鮮明に甦り、次に目をうるませながら、彼のさしだす卵を三拝して受けとった岡屋敷の母の姿が浮かぶ。
 岡屋敷は不運な男だったけれども、その長い病床生活のゆえにこそ、いまの西村の気持ちがわかるのではないだろうか。運命と死との二つの鏡にはさまれ、どちらへも突きぬけられないままに、その双方の鏡に段々と小さくなりながら無限に映る自己の影像を見ることの悲哀が・・・・・・。そして、あの母親は、息子の悲しみに目を注ぎ続けたその年月の試練のゆえに、また他者の悲しみを読みとる心の幅をそなえているだろう。戦争で私の母は死んでしまったけれでも、たとえ人の母であっても、母の感情というものがあるはずだ。だが、彼は岡屋敷の家のある工場街の方へは向かわず、日浦朝子を呼びだすべく、煙草屋の赤電話に最後の十円玉を入れた。愛情乞食と化したようなみじめな気持ちにうちのめされながら。
高橋和巳「憂鬱なる党派」『全集 5』467頁

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