日常の陥穽『高橋和巳全集 5』238-240頁

「――古在よ、と青戸は思った。君のせっかくの呼びかけではあるけれども、私は君の意図に応ずるわけにはいかない。私の対立者として、君の人間味と頭脳は、学生時代もその後にも、久しく貴重なものだったが、私はいま、君の言う〈現実〉、この日本の現実とは違った世界に身を移し変えようとしている。それはやむを得ないことでもあり、また私が望んだことでもある。人間関係のもっとも基本的なものが多くはやむを得ず、かつ反面、その当事者に望まれて作られるように、私はやむを得ず、またみずから望んで、近くこの国を去るだろうから。それをしなければ、皮膚は近代化されているようにみえながら、内実には前近代的なもののほとんどすべてがなお死滅せずに蠢いている、つつましやかなこの日本の〈家〉の中で、私が何に足をとられるか、私には目に見えている。母が暗黙のうちに思い描いている希望、その希望を本能的に嗅ぎとって、家の中にはふさわしくない香料を匂わせている嫂の立居振舞・・・・・・。君ならばどう身を処するだろうか。私にはもはや政治には大した関心はなく、それゆえに君と肩を組んで政治的な運動に挺身しようという気も能力もないが、しかし〈日常の陥穽〉から身を避ける知恵はある。それは個人的な知恵にすぎず、また永遠に個人の殻から抜けでられないかもしれないが、他人を思うことの美名にたぶらかされて、愚劣と心中するよりは、近代的な孤独と非情さのなかに私は住みたい。――おれは知っている。人間にとって、とりわけ知識人にとって、一番恐ろしいのは何なのかを。それは常に自己自身なのだ。微妙な心理の襞をかきわけて、自己の存在の根底、そのどろどろの地殻にまでつき進んでゆけば、そこに何が発見されるかを。そこには、どんなにでもなれる可能性が、無数に、しかも等価的にひしめいているのだ。野獣にもなれ、独裁者にもなれ、殉教者にもなれる恐ろしい可能性が渾沌として火を噴き、泡を噴いている。この世を破壊しようとする存在にもなることができれば、一粒の麦を不毛の土地に上に蒔こうとすることもできる。人々は普通それをまったく逆に思っている。人間には何にでもなれる自由などなにのだ、と。迫害者にも殉教者にも、犯罪人にも芸術家にも、そんなに簡単になれはしない。この世には無数の制限があり、人の能力にもまた一種の運命的な限界がある。平凡な一人の男の望みうる範囲はせいぜいが白い襟に紺の背広の月給取りであり、家庭の中の不機嫌な父親が、善良なだけで何の力もない〈庶民〉かになれるだけだのだ、と。だがそれは間違っている。人間は何にでもなれるものなのだ。神にも悪魔にも・・・・・・。その可能性の脅迫、自己自身に対する恐怖から逃れるために、人は集団を信じ規律に身を委ね、自己を制限し、自分をなだめすかそうとするのだ。私は知っている。君の呼びかけが過激であればあるほど、それに共感し、たとえば、その集会で政治家の暗殺計画がねられるのであっても、その先頭に自分はたちうるということをも。あるいはまた、いまふっと嫂の方に手をのばし、あらがいながらも、結局は目を閉ざして私を受け入れるであろうこの肉体をねじふせることもできる。何にでもなれる人間にとって、どんなに険しい道も悪魔の世界も、ほんの一歩の近くにある。あの古風な図式、家を守るために自分を犠牲にする生き方も、世人に恐怖され新聞にかきたてられながら、一瞬の反抗についえさる生き方も、ともに容易なことなのだ。だからこそ、私はそれをしない。普通、責任ある態度と言われているものは、実は安易な精神の、ずるずるべったりの屈服か、さもなくば、なしくずしの埋没にすぎないことを、私は、いやというほど知っているからだ。」
高橋和巳「憂鬱なる党派」『高橋和巳全集 5』238-240頁

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